禅林句集。「夜船閑話(やせんかんな)」で知られる白隠禅師の作で、良寛が好んだという。 「憂いがないのではありません。悲しみがないのではありません。ただ語らないだけです。語らないほど深い憂いだからです。語れないほど重い悲しみだからです。文字にもことばにも到底あらわせない深い憂いを、重い悲しみを心の底深く沈めて、じっと黙っているからまなこが澄んでくるのです」
「惻隠の情」という言葉がある。相手の立場に立って、相手の心情を測るという意味か。誰にも憂いや悲しみはある。しかし、そのような「言うに言われぬ思い」を秘めた寡黙な人間に対し、相手の心を察することなく、自分のことだけを一方的に得意げに話す者がいる。鈍感なのか、自己中心的なのか。寡黙な人間は、自分の悲しみや憂いを話して気の毒な感情を相手に与えてはいけない、という思いがあるかもしれないのに。
相田みつをの言葉にも、同様のものがある。「だれにだってあるんだよ ひとにはいえないくるしみが だれにだってあるんだよ ひとにはいえないかなしみが ただ だまっているだけなんだよ いえばぐちになるから」
「最高の人間関係は、自分の苦しみや悲しみは、できるだけ静かに自分で耐え、何も言わない人の悲しみと苦労を無言のうちに深く愛することができる人間同士が付き合うことである」(曽野綾子「孤独でも生きられる」)
「竹中半兵衛は、決してその苦痛や憂鬱を人に頒(わ)けない。きょうも変わらない微笑を静かに見せていた」(「黒田如水」、吉川英治)
「人は言葉にならない感情を抱えて生きている」(五木寛之「元気」)
「人間が、生きていることをつらいと思う、そして多くの人々が自らの命を軽いと感じている、そういうとき、本当に必要なのは無言で相手の痛みを感じ、深いため息をつく<悲>の感情ではないでしょうか」(「いまを生きるちから」、五木寛之)
「ひとの悩みを見て 自分も悲しまずに おれようか?ひとの嘆きをみながら いたわり 慰めずに すまされるか?」(ウィリアム・ブレイク)
「人の痛みを知り、自分の痛みは悟られない」(浅田次郎)
「人は皆我が飢えを知りて、人の飢えを知らず(自分一人が大変な思いをしているのではない。他の人も大変な思いをしているのだ)」(沢庵)
「のんきと見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」(夏目漱石「吾輩は猫である」)
「常懐悲感 心遂醒悟(じょうえひかん しんすいしょうご、法華経)」(どんな悲感があろうと、それを外にこぼすな、流すな、胸の奥に抱いていよ。そうすれば、その悲感がやがてお前の心を醒ましてくれる。そして悟りに至らしめる)
「己の困辱(こんじょく)は当(まさ)に忍ぶべし、而して人に在ってはすなわち忍ぶべからず。(菜根譚前集168)(自分の苦しみや辱めは、諦めて耐え忍ばなければならないが、人の苦境はけっして見過ごしてならない。自分のことは差し置いて、全力で救いの手を差し伸べなければならない)」
「魚がいいました…わたしは水のなかで暮らしているのだから、あなたにはわたしの涙が見えません」(王せん、「魚紋」より)
「顔で笑って、心で泣いて、男一匹花の道」(扇谷正造)
「生命を愛するということは、単に無為飽食を守っていることとは大変に意味が違う。だらだらと長生きを考えるということではさらさらない。いかにしてこの二度と抱きしめることのできない生命との余儀なき別れにも、その命に意義あらしめるか、価値あらしめるか。捨てるまでも、鏘然(しょうぜん。玉や鈴などの鳴るさま。また、水の音がさらさらと美しく聞こえるさま)とこの世に意義ある生命の光芒を曳くか」
「たとえ二十歳を出でずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとの長命というものであろう。またほんとに生命を愛したものというべきである。」(吉川英治「宮本武蔵・木魂の章」)
「武蔵は、かつて沢庵のいった(真に生命を愛する者こそ、真の勇者である)という言葉を決して忘れてしまっているわけでない。(この命!)そして(二度と生まれ難い人生!)を、今もひしと五体のうちに抱きしめているのであった。」(同)
平均寿命まで生きられれば、という幻想。しかし人はいつ死ぬかわからない。「たとえ二十歳を出でずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとの長命というものであろう」。
徒然草にも、「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」とある。
「老後、一日楽しまずして空しく過ごすは惜しむべし。老後の一日、千金にあたるべし」(貝原益軒)
「人間にとって大切なのは、この世に何年生きているかということではない。この世でどれだけの価値のあることをするかである」(O・ヘンリー)
「人生は物語のようなものだ。重要なのはどんなに長いかということではなく、どんなに良いかということだ」(セネカ)
「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」(セネカ「人生の短さについて」)
「その人の前に出ると 絶対に うそが言えない そういう人を持つといい その人の顔を見ていると 絶対に ごまかしが言えない そういう人を持つといい その人の眼を見ていると 心にもないお世辞や 世間的な お愛想は言えなくなる そういう人を持つといい その人の眼には どんな巧妙なカラクリも通じない その人の眼に通じるものは ただほんとうのことだけ そういう人を持つがいい その人といるだけで 身も心も 洗われる そういう人を持つがいい 人間には あまりにも うそやごまかしが多いから 一生に一人は ごまかしのきかぬ人を持つがいい 一生に一人でいい そういう人を持つといい 」
この詩を読んで、まず思い浮かべたのが、老いた親と何人かの亡くなった人たち。「人生の幸福は、解逅(出会い)と感謝」というが、最近は、そのような人になかなか出会えないでいる。
国宝「松林図屏風」などで知られる絵師・長谷川等伯の生涯を描いた安部龍太郎の「等伯」を読んだ。 上下巻二冊で約750ページ。
安土桃山から江戸初期にかけ、信長や秀吉、狩野永徳、千利休などが登場する歴史小説だ。 法華経、茶、禅、また養父母、妻、息子の死に接しながら、孤高に生きる。
「いろいろあったが、生きとるだけましや」という言葉は、波乱万丈だった等伯の人生を表している。 次の言葉も、印象に残った。
「その先に何が待っているかわからないが、歩き続けることこそ人にできる唯一のことなのだ」
「表現者は孤独である。誰とも違う、誰にもまねのできない境地を目指して、たった一人で求道の道を歩き続かねばならない」
「真心なければ姿勢正しからず、姿勢正しからざれば円満を欠く」
「欲や虚栄をかなぐり捨ててありのままの自分に戻ってみる」
MLBア・リーグで、ヤンキースが優勝。 7月にマリナースからヤンキースへ電撃移籍したイチローの言葉。
「ジーターが言っていたんだけど、『今日で練習試合は終わり』だと。 このチームはあくまでここがファーストステージで、この瞬間は明日からは過去のものになる。 足を地にしっかりと踏ん張ってやっていきたい」 移籍後の彼の成績は打率0.322。心機一転、水を得た魚のようだ。今年38歳。一流選手としての実績を長年残し、3000本安打も達成すれば野球殿堂入りは確実だろう。しかし過去にこだわらず、新たな気持ちでより良きプレイをめざし常に努力し、孤高の道を歩む。
ヤンキースは、今年のみの補充要員と考えているかもしれないが、 それを打開する活躍をプレーオフ、そしてワールドシリーズで見せて欲しい。
「男の作法」は「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などで知られる池波正太郎のエッセイ集。飲食、スーツとネクタイ、金、男と女など、豊富な人生経験と思索に基づき、多岐にわたって「粋な男とは」を述べる。ポイントは「他人を配慮した行動がとれているか」。彼が生きた時代と現在では、社会的背景は違うだろうが、「そうだ!」と共感できる箇所は多い。
「いつまで生きていられるか、自分が生きている年数があと何年か、それを考えなければいけない」
「自分の周りのものすべてが、自分を磨く磨き砂だ」(吉川英治の「我以外皆我師」も同じ意味だ)
「苦労は磨き粉みたいなもんだね。磨いているときは痛いけど、きれいになれるよ」(高峰秀子)
テレビ局のレポーターが、名前も知らない中高年の男性に対して、「お父さん」と気安く呼びかけることがある。違和感と不快感を感じる。深読みかもしれないが、呼びかけられた相手が欲しくても子供ができない場合があるかも知れないし、一人っ子を亡くしたことも考えられる。レポーターは親しみをこめたつもりで言っているのだろうが、「お父さん」と言われた男性によっては、つらい、あるいは小馬鹿にされた感情を抱くかも知れない。
KFCで見かけた「クリスマスのご予約はお早めに」、ガストでは「最大の御馳走」。どちらも「ん?」と思ってしまう。前者は、クリスマス=クリスマスの日に食べるフライドチキンの意味だろうが、後者は、今一つ意味不明。
他にも、「半端ない」、「鳥肌が立つ」、「上から目線」、「真逆」、「がっつり」、「温度差」、「絶賛の嵐」など気にかかる言葉は多い。時代の変化とともに、日本語の意味が変化していくのは仕方ない。しかし特に若者言葉を中心に、誤用や本来の意味を無視した変な日本語が広がっている。亀井勝一郎は「美しい行為は、美しい言葉から生まれる」と言った。
時代小説の主人公は、重厚感のある魅力的な大人が多い。現代人は寿命が延びた反面、浅薄になった印象を受けるが、たとえば江戸時代の武士は、ずっと奥深く上品で、歳の重ね方の深さを感じる。なぜなのか。今と比べれば、情報量は圧倒的に少ない。生活を楽にする文明の機器もない。その分、気持ちが内に向かったのだろう。だから、内面から発するものが輝くばかりの容貌を作るのだ。
家督を譲った後の隠居生活を描く藤沢周平「清左衛門残日録」の三屋清左衛門(見出しの言葉は、そのなかのせりふ)。また「蝉しぐれ」は海坂藩普請組・牧文四郎の生涯を描く。藩主の跡目争いに巻き込まれて、父・助左衛門が切腹し、家禄も減らされる。文四郎の誠実さ、優れた剣術、そして、お福との純愛などで一気に読ませる。池波正太郎「鬼平犯科帳」。現代の特別警察というべき火付盗賊改方長官・長谷川平蔵は理想的なリーダーだ。剣の腕がたち、情や義に厚く、英断力もあるため、部下や密偵らから尊敬と畏怖の念を持たれ、慕われる。神渡良平の小説「春風を斬る」の主人公・山岡鉄舟もまた魅力的な人物だ。幕末から明治にかけ、剣と禅の修行を通じて、怒涛の時代の寵児となる。葉室麟「蜩ノ記」の戸田秋谷は、切腹を命じられながらも淡々と家譜編纂作業を続ける・・・。
10代の時は20代の人が大人に見え、20代のサラリーマンの時は役職者がとても貫録があるように見えた。しかし、現在の自分は貫録もないし、深みもない。落ち着きもなければ、他人に年輪を感じさせることもできない。言葉にも態度にも説得力を欠き、欲望は未だに生々しく、枯淡の境地にはほど遠い。小利口でお行儀よく、陰影には乏しい。
タバコを吸わない者にはどうでもいいことかもしれないが、喫煙者がコンビニでタバコを買うとき、大半の人間は未成年者でないのが明らかなのに「年齢確認のため、前の画面のボタンを押してください」と言われる。画面には「私は20歳以上です」と年齢制限が表示されたボタンがあり、それを押すのだ。
「未成年者はタバコを吸ってはいけない(店は未成年者にタバコを売ってはいけない)」という法律を徹底させるための国の施策だろうが、自販機のタスポ同様、客に面倒をかけさせても自分たちは未成年者にタバコを売っていないという販売者や国の責任逃れの浅知恵が見え隠れする。 それだけに、「恐れ入りますが・・・」とか「申し訳ありませんが・・・」という言葉が加えられても、その「命令口調」には一部反発があるようで、「なんで自分が押さなければならないのか」と文句を言う客もいるらしい。何度も文句を言われて辟易しているのか、自分たちも迷惑だという気持ちを抑えながらカウンター越しに黙って自分でボタンを押す店のアルバイトもたまに見かける。
不快感を持たず、面倒も感じず、当然のように客がボタンを押すうまい言葉はないのだろうか。まあ確かに、どうでもいいことかもしれないが・・・。
福岡・二日市温泉街にある野菜バイキング「花こうじ」と、隣接するかけ流しの博多湯に行った。「花こうじ」のオープン時間は11時半。時間があったので、近くの天拝公園へ。
すぐ傍には、藤の花で知られる武蔵寺がある。公園にあった石碑をなにげなく見ていると、天拝山から降りてきた年輩の女性が、「短歌に興味をお持ちですか」と声をかけてきた。 彼女は毎日、天拝山に登っているという。天拝山はそう高くない。標高数百メートルか。彼女の説明によると、この碑は、95歳でなくなった彼女の和歌の先生の作という。
「清らけき身をば証(あか)さむ菅公の祈りはるけし天拝の山」。 讒言で大宰府に流された菅原道真は、身の潔白を証明するため、武蔵寺近くの瀧で身を清め、天拝山からはるか京都に思いをはせた、という。大宰府近辺には、道真公にまつわる詩碑も多い。ぶらぶら歩いていると新たな出会いがある。