佐藤一斎の「言志四録」には、琴線にふれるいい言葉がたくさんある。
「春風をもって人に接し、秋霜をもって自らを慎む」
「人は須(すべか)らず自らを省察すべし」
「天を怨まず、人を咎めず」
「名を成すは常に窮苦の日にあり 事を破るは多く志を得るの時による」(苦難の中にあっても、他人の思惑など気にせず、自ら志を立てる。絶えず前向きな問題意識を持って、即行動することで道が開かれる。人間は貧しくても、希望と自信さえあれば明るく生ききれる)
「胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す」(燈心、虚心坦懐、不動心)
「士はまさに己にあるものを恃(たの)むべし」(西郷隆盛も「結局は自分じゃっど」と言った)
「独りを慎む」(いつも自分の心を慎み、身の行いを正しくし、驕りや贅沢を戒め、無駄を省き、慎ましくする)
「己こそ己の寄るべ己を置きて誰に寄るべぞ。 よく整えし己こそまこと得難き寄るべなり」(法句経)
自らの死を整理する「エンディングノート」という本があるのを知った。それだけ、高齢化社会の中で、老いと死への関心を持つ人が増えてきたということだろう。
「老いる死期を常に意識せざるを得なくなって花を見れば、『生きてまた今年の花に逢えたか』との思いに切なるものがある。花を見れば花を見るのも今年限りかもしれぬという思いが浮かび、それで花の味わいがひとしお深くなるだろうと思う」(中野孝次)
「電車の窓の外は光に満ち、喜びに満ち、いきいきと息づいている。この世ともうお別れかと思うと見慣れた景色が急に新鮮に見えてきた」(高見順)
「死にとうない」(仙厓和尚)
「(特攻隊の自分は)母に遺書を書いた。翌日、集落を離れ、山の方を歩いた・・・。目に入るすべてのものがいとおしかった。なにもかもが美しいと思った。道ばたの草さえも限りなく美しいと思った」(「永遠の0」、百田直樹)
「人の死ほど、人に時を感じさせてくれることはない」「切に生きる」、瀬戸内寂聴)
「自分流に不器用に生きることである。自分流ではなく他人流に生きようとする人が多すぎるからストレスが起きる」
「一分でも一時間でも、きれいなこと、感動できること、尊敬と驚きをもって見られること、そして何より好きなことと関わっていたい。心を揺り動かされる瞬間というのは楽しい。この心の揺れ動きが多ければ多いほど人生は味わい深くなる」
「人は運命をそのまま受容すべきなのだ」
「人間は世間の風潮がどうあろうと、自分の信念に従って生きる時、輝いて見える」(以上、曽野綾子)
近年、曽野綾子の著作は、夫の三浦朱門同様、「老いや死」に関するものが多い。書店に平積みされ、売れているらしい。
「いわゆる『いい人』というのは、結局、自分の規範に従うというよりも他人からどう思われるかを気にしている人である」(池田清彦)
老子の英訳文を契機に、自らの老子観を作った加島祥三。1923年生まれで、長野県伊那谷で独居生活を続けている。代表作は「伊那谷の老子」や「私のタオ」などで、「柔らかなもの、やさしいものこそ本当は強い」と説く。近年は、「求めない」「受け入れる」を発表している。
「求めない すると心が静かになる」「求めない すると恐怖感が消えていく」「求めない すると心が澄んでくる」「求めない すると時はゆっくり流れ始める」「求めない すると自然の流れに任すようになる」「求めない すると本物を探している自分に気づく」「求めない すると人から自由になる」・・・。
「受けいいれる すると運命の流れが変わる 」「受けいいれる すると優しい気持ちに還る」「受けいれる すると自分の根にある明るさに気づく」・・・。
悲しみもつらさも、すべてを受け入れる。老いや死も受け入れる。そうすることが「深く生きること」の意味をもたせる。
東京電力福島第1原発の事故を引き起こした東日本大震災は、東北の沿岸部に立地する原子力施設の「安全神話」も根底から揺るがした。1~3号機が相次いでメルトダウンした事故は前例のない放射能汚染をもたらし、多くの人々に痛みを押し付けている。東北には国内全原発の約4分の1に当たる14基が立地し、その全てが東日本大震災で被災した。
福島県いわき市に住む知人が、福岡に遊びに来た。2011年3月11日の東日本大震災では「腰が抜けた」と言っていた。本人の職場から、わずか数百メートル先まで津波が押し寄せ、地震直後は、毎日、多くの死体が海岸に押し寄せたという(多分、家族の遺体を未だ発見できない人も多いだろう)。
自分が、「もう落ち着いただろうから、暖かくなったら三陸海岸をぶらぶら歩いてみたい」とノー天気に言うと、「復旧は遅々として進んでいません。道路は不通だし、がれきもたくさん残っています。仙台までは、遠まわりしなければなりません。福島原発付近の住民は、いわき市に移住してきています。住宅は彼らのために優先され、自分たちが引っ越ししたくても、ままなりません。10年たっても、放射能に対する恐怖は消えないでしょう。国の政策も期待できません。メディアで報じられているような復旧はほとんど進んでないのです」と諦めともつかない口調で言われた。
拉致問題と同様、この東日本大震災の被害や復旧に対する関心は、時間とともに風化していくのではないか。すでに、東日本大震災の復旧は、原発問題を含め、政局の一課題としてないがしろにされている。
偶然NHKテレビで知った佐村河内守さん。被爆二世として、1963年広島に生まれる。彼は全ろう(全く耳が聞こえない)ながら「交響曲第一番“Hiroshima”」を作曲し、今、世界的に評価が高まっている。
早速、図書館から、そのCDと彼の著作を借りてきた。 4歳から母親の厳しいピアノレッスンを受け、バイオリン、尺八、マリンバなどは独学。高校時代、突然、耳鳴りと偏頭痛が始まる。その後、「音楽大学に進め」という親の希望を振り切り、本人は上京して、交響曲を作るための努力を続ける。しかし、聴力は悪化していくばかり。35歳の時、一切の聴覚を失う。日々の生活は作曲活動だけでなく、収入を得るための肉体労働と養護施設でのボランティア。そこでの仲間や子供たちとの出会いが彼の支えとなる。その間、重度の神経障害に襲われ、結婚した女性にもその苦しみは伝えず、二回の自殺を図ったが死にきれなかった。
見出しは、その時に感じた言葉。 耳は聞こえなくとも、絶対音感だけで、ゲームソフトで使う「鬼武者」を作曲し、それが「交響曲第一番“Hiroshima”」につながった。本の表紙に写された手書きの譜面を見、また約70分のCDを聴くと、これが耳の不自由な人が作ったのかと圧倒される。
しかし、2014年2月、「交響曲第1番 HIROSHIMA」などが別の作曲家によって作られていたことがわかった。
角界の人気力士、高見盛。最高位は小結だったが、現在は十両まで落ちている。勝ったときは胸を張り腕を振って、負けた時はしょんぼりと控え室に戻る。土俵上で塩を撒くときなどの所作は、まるでロボットのよう。
その高見盛が、秋場所千秋楽の取組で勝った後、こう言った。「どんな時も正面からぶち当たって勝負する。どんなにボコボコにされても立ち上がるのが、自分の生きざまです」
近年、大相撲は人気が落ち、館内の空席も目立つ。子どものころ、本場所では毎日、満員御礼の垂れ幕が下りた。初代若乃花と栃錦、柏戸と大鵬などの優勝決定戦があると、直前までラジオで実況を聴き、テレビのある近くの銭湯に駆け込んだものだ。外国人力士が増えたせいか、けがを恐れてガチンコ勝負を避けるためか、面白くない。
判官びいきであれ、高見盛のような人気力士が増えなければ、大相撲はますます若い人を中心に見向きもされなくなるだろう。
「やはらかに人わけゆくや勝ち角力(すもう)」(芭蕉)
江戸後期の曹洞宗僧侶・良寛は純真で慈愛の人であった。また歌人として、「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」など、遊戯三昧の境地を楽しんだ。その良寛が、一方で辛辣な「戒語」を多く残している。
「もの言いのくどき 人の傷つくことを言う 己が得手にかけて言う おれがこうした,こうした 講釈の長き 自慢話 己が悪しきことを人に塗りつくる 人のもの言いきらぬうちにもの言う ひきごとの多き そのことの果たさぬうちにこのことを言う 物知り顔に言う言葉の多き わがことを強いて人に言い聞かさんとする 己の意地を言い通す 人の気色を見ずしてもの言う 引き事の多き 過ちを飾る よく知らぬことを憚りなく言う 己の意地を言い通す 悟り臭き話 学者臭き話…」
良寛は僧であっても生涯寺をもたず、無一物の托鉢(たくはつ)生活を続けた。寒風の五合庵で暮らし、春を待ちこがれた。そして、「いついつと 待ちにし人は きたりけり いまは相見て 何か思はむ」「生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき」「裏を見せ、表を見せて散る紅葉」など、40歳も歳の離れた貞心尼との歌のやりとりは、晩年の良寛の心を温めたのだろう。74 歳で没した辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」
辞世の句と言えば、「最後の無頼派作家」と呼ばれ、悪性肺腫瘍で63歳の若き生涯を終えた壇一雄の「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」。
モガリ笛は虎落笛とも書き、冬の強い風が柵や竹垣・電線などに吹きつけて発するヒューヒューという笛のような音のこと。「花二」の二は、「リツ子・その愛」「リツ子・その死」に描かれた、先に逝った妻・律子と、「火宅の人」に登場する愛人の新劇女優の二人をさし、死期を悟った檀がゼイゼイと咳き込む自分の苦しい息を虎落笛に喩えて、あと幾夜か苦しめばあの世で、その二人に逢えるという解釈もある。
若いころ、これらの本を読み、また壇が一時期ポルトガルで生活していたことにも触れて、「優しさを内に秘めながら、酒を愛し、女を愛し、好きなように生きた」と友人に語ったところ、「単に妻や子を捨てた自分勝手な男に過ぎない」と一蹴されたことを思い出す。 この句は今、終(つい)の住み家となった福岡・能古島の文学碑に刻まれている。
朝、外がうるさくて目が覚めた。のぞいてみると、隣家の貝塚イブキを電動除草機で剪定している。横に停められた車を見ると、「シルバーセンター」の文字。
素人が時間節約のための「安かろう、悪かろう」のやっつけ仕事をしている。プロの造園業者なら、脚立を使い、両手ばさみで丁寧に仕上げるだろう。
航空機や救急車の場合はやむを得ないが、「お静かに願います」と言いたい場面は結構多い。新幹線やファミレスで、おばさん連中が近くに座った時は悲惨。のべつくまなく、しゃべり続け、周囲の静かな時間を奪うことなど気にも留めない。町内公民館のスピーカーの音をボリュームいっぱいに上げての「お知らせ」も、幹線を走るバイクの音も、選挙カーの「最後のお願い」もそうだ。
小学生の頃、夏休み早朝のラジオ体操や盆踊りの音はひとつの風物詩だった。しかし近隣住民のクレームからか、ほとんど聞かなくなった。好ましいのは人口音ではなく、晩夏の蜩(ひぐらし)や初秋の虫、鳥の鳴き声、そして渓流のせせらぎ、潮騒、雨などの自然が生み出す音。