「気骨稜々なり」(火坂雅志)。「気骨」は自分の信念を守って他に屈しない気性、「稜稜(りょうりょう)」は、その「気骨」を貫き通そうとする気概にあふれている様子の意味。
戦国時代の博多の豪商、島居宗室。17歳で父を亡くすが、茶具の目利きなど、自らの知恵と才覚で朝鮮や東アジアでの貿易で財を成していく。 龍造寺、大友、島津の九州覇権争いで博多の街は何度も焼失し、身ごもっていた宗室の妻も焼け死ぬが、信長や秀吉と謁見しても媚びたりおじけたりすることなく、またその威を頼らず、博多の街を守るために堂々と自分の意見を述べる。博多塀の発案者が島居宗室であることも、この本で知った。
「モンスター」(百田尚樹)。話の展開と共に、結末が気になった。 その容貌が余りにも醜いため、子供のころから「バケモン」「モンスター」と蔑まれ、そのことが原因で家庭崩壊した主人公は東京の短大を卒業しても就職することができず、やむなく製本工場でアルバイトを始める。その貧しくて醜い女が、たまたま手にした整形美容の広告を見て思い切って目の整形を行う。それを契機に彼女はさまざまな風俗嬢として金を稼ぎ1000万円以上の金を使って各部位を整形、絶世の美女に変貌する。主人公は整形後、初恋の男性に再会するため故郷に帰り、レストランを経営する。昔、彼女を馬鹿にした同級生への報復も興味深く、「美女と醜女の一考察」としても面白い。
「人間の世界は、学歴や家柄、職業や知識、そして金、その他さまざまなものでごまかされる。余計なものに目が騙される恋なんて本当の恋ではない」
「もっともふさわしい言葉で、正確に自分の思いを伝えるために、人は辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める」
2012年の本屋大賞第一位に輝いた「舟を編む」を映画で観た。新しい辞書を編纂するために、編集者らが15年の歳月を費やして黙々とその仕事に取り組む。寡黙で世間ずれしながらも編纂に情熱的な主人公、その仕事を支える料理人の妻、営業センスのある元同僚の先輩、38年間辞書編纂のみに自己の人生を費やし定年を迎えたベテラン編集者、そして編集責任者…。
登場人物それぞれが個性的で魅力的なキャラクターをもつ。最後の出版記念パーティのシーンは感動的だった。 この映画のポイントの一つは言葉。言葉は時代と共に意味が変化することもある。業界用語や若者言葉が、その一例だ。単にコミュニ―ケーションの一手段としてであれば、本来の使い方と異なっても、その意味が通じればいい。しかし、「もっともふさわしい言葉で、正確に自分の思いを伝える」ためには、言葉の本来の意味を知り、その言葉を意識しながら使うことが大切である。そのために、辞書が必要なのだ。
「風に立つライオン」(さだまさし)。さだまさしの「風に立つライオン」は好きな曲のひとつだ。バックの曲「アメージンググレース」も効果的に使われている。今回、同名の小説を読んで、「突然の手紙」、「こんな所にもサンタクロースはやってきます」、「僕は淀みない命を生きたい」、「あなたの幸せを心からいつも祈っています。おめでとう、さようなら」など、この曲の歌詞の意味が具体的に理解でき、感動的だった。
「お願いだから、幸せになってください」。この言葉に、主人公の言いようもない感情が表現されている。小説の冒頭、東日本大震災で被害に遭った石巻市の日和山が登場する。ここは、以前YOUTUBEで見た、さだまさしが「石巻復興コンサート」を行った場所でもある。登場人物は一人ひとりが、主体的・個性的で魅力がある。さだまさしの小説は「精霊流し」や「茨の木」などを読んだことがあるが、彼は優れたミュージシャンであるばかりでなく、優れた小説家であることを改めて感じた。
写真は小説に出てくるアフリカの花「ジャカランダ」。 「ガンバレは人に言う言葉ではなく、自分を叱咤激励する時の言葉なのだ。なぜならば人は誰でも頑張って生きているのだから、その人にガンバレなどと他人が言うべきではない」
「医師の仕事は病を治す事だけではなく、目の色の老けてしまった人に、元の目の輝きを取り戻させることこそが一番の仕事なのです」
「自分が人にされて嫌なことは絶対に人にしない、ってことが自由の条件さ」
「良かれと思って発しても、その言葉は自分の心にだけ心地よい言葉で、相手にとってはとても痛いだけ、ということもあります」
「食べる物を食べ、寒さをしのげれば案外、人は元気に生きられる。大切なのは笑い」
「新老人の思想」(五木寛之)。著者は、石原慎太朗と生年月日が同じで昭和7年生まれ。すでに米寿を超えた。しかし現在でも、「親鸞(完結編)」など多くの作品を書き続けている 。
幸福な老人とは何か。他人の世話を受けず自立して生活でき、好きなことだけをして、したくないことはせず、会いたくない人間には会わない。あるいは、子供や孫に囲まれて楽しい日々を過ごすことなのか。しかし、その状態もいつかは終わる。 近所に老人養護施設がある。道路からガラス越しに屋内を見ると、車椅子に乗った高齢者がただ黙ってじっとしている様子が目に入る。
本書は、ただ長生きするだけでは生きている意味がないとも説くが、人は年を取るとともに、いずれ周囲の介護を受け、必ず死ぬ。現実に高齢者の大半が寝たきり、要介護の状態にあるとすれば、それを「苦」と受け止めるのが自然ではないか。それだけに死を意識することは、生の輝きを意識することでもある。
「東天の獅子」(夢枕獏)。この格闘技小説は実に面白い。全4巻(約1700ページ)を一気に読んだ。明治時代の柔術には相手の重心を崩すための当て身もあり、現代のスポーツ柔道と違って、実践的でまさに総合格闘技だった。
他流派との試合だけでなく、琉球拳法(沖縄空手)、九州の古流柔術、大東流柔術(後の合気道)、相撲など、それぞれの異種格闘技戦は息をのむ。なかでも、警視庁武術大会はまさに命をかけた死闘だった。 小説では嘉納治五郎やその門下生の講道館四天王など、多くの武道家が登場するが、なかでも、無敵の武田惣角(合気道の始祖、植芝盛平の師)の身長がわずか150センチほどであったのには驚かされる。
「試合のために稽古をするのではなくて、こういう日々の稽古のために、生きている普段の時間を充実させるために、試合があるんじゃなかろうかと、このごろは思うようになりました」
江戸時代の禅僧、至道無難の言葉。「死を意識すれば、生が輝く。一日一生、いまここに全力を尽くせ」。しかし、これがなかなかできない。安易な方向につい流れる。日々の生活の中で、メンツや金などに振り回されてしまう。だからこそ、それらが原因で心を揺るがす相手とは一切の関係を絶ち、したくないことはせずに生きられればいいと思う。
人間、裸で生まれて何不足。人間本来無一物。金は生活費プラスアルファであれば、それでいい。大切なのは、命、心、自由、そして残された時間。今はビジネスや世間とは別の世界で暮らすこと、安閑無事が心地よいと思うようになった 。
「おのづから相あふ時も別れても ひとりはいつもひとりなりけり」(一遍)
「村上海賊の娘(上・下)」(和田竜)。主人公は、戦国時代末期、瀬戸内海を制した村上海賊当主の娘・景(きょう)。登場人物紹介欄には「悍婦(かんぷ=気の荒い女)にして醜女(しこめ)、当年20歳」とある。
拡大を続ける信長勢力と大阪本願寺派との7年に及ぶ抗争の中、反信長の中国毛利家に加勢する村上海賊(三島村上)は、大阪本願寺派支援のため10万石の食糧を積み、千艘の船で安芸から大阪へ向かう。圧巻は、景を中心とする村上海賊と大阪本願寺を責める信長派真鍋海賊との木津川合戦の場面。 登場人物は皆、個性的だ。
「ただ、こうして個々人のその後を俯瞰すると、その多彩さに唖然とする。ある者は、失意のうちに時代の渦に飲み込まれ、ある者は上手に立ち回り、ある者は父の息吹を受け継ぎ、ある者は時代の流れに身を任せた。それでも、いずれの人物たちも、逃れ難い自らの性根を受け容れ、誰はばかることなく生きたように思えてならない。そして結果は様々あれど、想うさまに生きて死んだのだ」
現代にも通じるが、「誰はばかることなく生きる」、「想うさまに生きて死ぬ」ことは難しい。
「高峰秀子の流儀」(斎藤明美)。本の表紙は、73歳の高峰秀子(享年86歳)の凛とした和服の立ち姿。彼女の人生を象徴する一枚の写真である。
高峰秀子は5歳で映画界に入り、55歳で引退するまで、常にトップスターとして、名子役から大女優への道を歩き続けた。しかし、その間、養母だけでなく多くの親戚が彼女の得た多額のギャラを食い物にした。また、高峰は学校へは、わずか二か月しか行くことができなかった。しかし、彼女には、毅然とした態度、冷静で適切な判断、人間に対する深い理解力や細やかな心配りが常にあった。 その高峰が唯一、心の安らぎを得たのは「清廉(心が清くて、私心がない)」な松山善三との結婚生活だった。
彼女には、愚痴、説教、昔話が全くなかった。引退後は、「世間の雑事に煩わされることになく静かに過ごしたい」と世間との関わりを遠ざけ、読書三昧の日々を過ごした。その凛々しさ、潔さに引きつけられる。
「動じない、求めない、期待しない、振り返らない、迷わない、甘えない、変わらない、怠らない、媚びない、驕らない、こだわらない」
「彼女には、人にどう思われたって構わない、という姿勢がある。相手に自分の意思が伝わるまいが、誤解されようが、知ったことかという姿勢。だから決して人に近づかないし、話をしても、必要最小限度の言葉しか発しない。つまり他者との相互理解を望んでいないのだ」
「欲望に憑かれた人間の醜さ、虚栄心を満たそうとする人間の醜さ、金に踊らされる人間の醜さ…。金や名誉がいかにむなしいものか、そして人間にとって本当に大切なものは何か。高峰秀子にとって、金や名誉は『あんなもの』であり、『そんなもの』でしかないのだ」
「川あかり」(葉室麟)。藩の派閥争いの片方の領袖で、江戸から国許へ帰る家老を国に入る前に討つべく、藩一番の臆病者と言われた18歳の気弱な伊東七十郎は、故(ゆえ)あって刺客を命じられる。しかし、雨が降り続け、増水のため10日余りの川止めになった。その間、旅人らは渡瀬近くの宿に逗留しなければならなかった。相手はすでに川向うまで来ているはずだが、七十郎も、やむなく木賃宿に泊まることにした。雨が上がり、川を渡ることができる川明けまで、七十郎はその木賃宿で、それぞれ「いわくありげな8人の男女」と相部屋になる。そして、その時が来た。
この小説は、七十郎がその「いわくありげな男女」の正体を知った(彼らには悲しい辛い過去があった)後の、最後の「その時」の場面が特に面白い。七十郎は、これからどのように成長していくのだろうか。
「まことに女人は外面如菩薩内心如夜叉」
「この世は人のためを思い、尽した者が報われず、己の欲を満たすために生きた者が栄耀栄華を得るようにできているのだ」
「世の中というのはな、人の良い奴、弱い奴が貧乏くじを引かされるようにできておる」
「人が思いを伝えることの、なんと難しいことか」