「日輪にあらず 軍師黒田官兵衛」(上田秀人著)読了。豊臣秀吉の軍師として仕え、諸大名との交渉や九州制圧などで活躍した黒田官兵衛(後の如水)の生涯を描く。
44歳で家督を長政に譲ったが、秀吉が放さず、朝鮮へも向かう。官兵衛の智謀あったればこその秀吉の天下取りだったのかもしれない。没59歳。辞世の句は「思いおく言の葉なくて ついに行く 道はまよわじ 成るに任せて」(充実して生きた満足感は、どれほどの人が得られよう。自分は精一杯人生を生きた。この世に思い残すことはもう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ)
「賢くないというのは貴重でござる。人は誰でも己を少しでもよく見てもらおうと思うものでござるが、あの御仁(秀吉)にはそれがない。あけすけに己を見せられる。なかなかあれだけの大器量人はおりませぬぞ」
「天下付武を急務と認識したからこそ、信長は天魔とののしられることを覚悟の上で、比叡山を焼き、長島一向一揆を殲滅した」
「人というのは、己の器の中でしか他人を推し量ることができぬものだ」
「俗世での権力や身分は、いわば衣服のようなもの。いかにきらびやかで豪勢なものでも、またすり切れて薄汚れた服でも、脱いでしまえば皆同じ裸でしかございませぬ」
「人というものは強欲でござってな。昨日までは二膳の飯で満足していたものが、三膳の飯を知ると、もう二膳では我慢できなくなりまする」
以下は「黒田如水」(吉川英治)から。「竹中半兵衛は決してその苦痛や憂鬱を人に頒(わ)けない。きょうも変わらない微笑を静かに見せていた」
「信長は、逆境に遭えば遭うたび、その逆境を一段階となし、次の運命を人の意表を切り拓いて、飽くまで積極的に進んでいく」
「怒涛の中にあっては怒涛に任せて天命に従っていることである。しかも断じて虚無という魔物に引き込まるることなく、どんな絶望をみせつけられようと心は生命の火を見失わず、希望をかけていることだ」
「逝く者は無情、残る者は有情・・・。ああ、月白く風清し。この世は真に美しいところ哉」
「森の生活」の著者、ヘンリー・D・ソローのこの言葉は、一面、的を射ている。しかし自分の貴重な時間を犠牲にしても、家計維持のために、機械のような単純作業や肉体労働を強いられている人は多い。自分の生活のために、家族のために、仕方なく仕事をしている人は多い。
バブル崩壊後の不況下、雇用状況の悪化が続いている。大学新卒者の内定率は約60%、高校生の場合はもっと悪い。ハローワークの職員は「自分の年齢と同じ数の履歴書を書け」と他人事のように言うそうだ。正社員の数が減る一方、派遣社員やアルバイトが増え、メディアでは希望退職や有効求人倍率の低下などの言葉が並ぶ。
ソローは「貧しくても、楽しく自立して生きることはいくらでもできる」「自分のリズムで歩くことが大切なのだ。他人の歩調に合わせようとするからつまづく」とも書いている。世間的には貧しい暮らしであっても、金を得るだけのための機械のような労働はせず、その分、自立した時間を多く持ったほうが本当は豊かなのだということだろう。
「自分の生活水準を保つため、おかしな職場で自分をすり減らしながら生きたり、自殺に追い込まれるまで働くのは本末転倒だ」(「ぼくたちに、もうモノは必要ない」、佐々木典士)
童謡「雪やこんこ」の音楽を流しながら、灯油販売の軽トラックが町内を巡回する季節になった。
「雪やこんこ 霰やこんこ 降つては降つては ずんずん積もる 山も野原も 綿帽子かぶり 枯木残らず 花が咲く 雪やこんこ 霰やこんこ 降つても降っても まだ降りやまぬ 犬は喜び 庭駈けまわり 猫は火燵で丸くなる」
しかし、地球環境の変化のせいか、「ずんずん積もったり、まだ降りやまぬ」ような大雪は近年はない。山や野原はなくなり、庭を駆け回る犬もいない。子どもは雪合戦を知らず、ゲーム機に遊び呆け、大人は商業化されたクリスマスやファッションに踊らされる。
「冬の寒さに耐えながら、花爛漫の花を待つ」という思いは変わらないが、かつての日本の美であった四季の移り変わりも、人間同様、平ぺったくなってきた。
中野孝次「いのちの作法」。
「自然死こそ望ましい。肉体を維持するためだけの延命治療はやめよ。肉体的に長生きしただけでは何の価値もない。大切なことは、いかに自立し、充実して生きたかである」
死について書かれたこの本を読んでいると、その陰気な内容に気持ちが重くなってくる。 しかし、後半は「人は死の自覚あってこそ生が輝く」「今ココに生きよ」と、吉田兼好、セネカ、プラトンなどの言葉を例にあげ、生を讃歌する。
この本は難しくて、気軽に読めない。しかし、死を考える時、そして生を考える時、一読に十分値する良書だ。
横浜、中日で活躍した佐伯貴弘選手(42)が2回目のトライアウトを受験した。彼は2011年に中日から戦力外を通告され、現在は“野球浪人”である。今年11月も千葉ロッテの入団テストを受けたが、「不合格」。
「今日のトライアウトに後悔はないか」という問いに、彼はこう答えた。「だいたい、辞める選手って『もうちょっとあのとき』とか『あれができていたら…』って言うんですよ。オレ、そういうの、大っ嫌いなんです。自分はいつ棺桶に入ってもいい、これ以上できませんっていうくらいやって来たつもりだし、成績の善し悪しはともかく、そこに臨むまでの準備はいつも万全を期してきたつもりだし、そういう意味では『後悔』はないです」
プロの世界は、結果がすべて。たとえ、ドラフトで一位に指名されたとしても、結果を残せず、わずか数年で球界を去らなければならない選手も多い。新人の華やかな入団会見がある一方、再起をかけたトライアウトへの挑戦もある。
「この世で大切なものってなんですか」(酒井雄哉、池上彰の対談集)。 大阿闍梨・酒井雄哉氏は、千日回峰行を二度満行した比叡山長寿院の住職。1926年生まれ。 仏教の無常観の中で、「一日一生の思いで生きろ」と説く。
「死を意識してこそ、生が充実する」
「一大事とは今日ただ今のことなり」
「過去や未来にふりまわされず、今ココを精一杯生きる」
頭ではその通りと思いながらも、煩悩だらけで精一杯生きてはいない。「よいことも、悪いことも、くるくるまわっている」ことを自覚しながら、主体性をもって、あるがままに日々を生きていくこと。
「人間一度死んで二度とこの世に生まれてこないとしたら、もう少し命を真剣に大切にしたらどうであろう。そして真剣に命を大切にしようと思うなら、今生只今この時の命を、最も力強く活かさなければ嘘である」(中村天風「真人生の探求」)
「さしあたる、そのことのみをただ思え。過去は及ばず、未来知られず」(古歌)
「送らず、迎えず、応じて、蔵ぜず」(荘子)
「人の世は、みんな勘違いで成り立っているものじゃよ。ごらんな、太閤・豊臣秀吉や織田信長ほどの英雄でさえ、勘違いしているではないか。なればこそ、あんな死にざまをすることになった。それほどに、人が人の心を読むのは難しいのじゃ。ましてや、この天地の摂理(動き)を見究めることなど、なまなかな人間には出来ぬことよ。なれど出来ぬながらも、いつも我が心を慎んでいるだけでも、世に中はましになるものさ」(池波正太郎・剣客商売「徳どん、逃げろ」)
第一印象や先入観(思い込み)などをひとつの理由に、人に対する勘違いは誰でもする。その結果、ちょっとした誤解で済むこともあるし、悲しい事件になることもある。上述のように歴史を変えることもある。それだけ人の心を読むのは難しい。一時的、表面的に相手を見る場合は、よほど目の肥えた人でない限り、見誤る。
ちなみに亀井勝一郎は、「恋愛は美しい誤解」と言った。
2005年に公開された映画「バットマンビギンズ」で、主人公の幼馴染レイチェルが言ったせりふ。
どんなに多くの本を読んでも、さまざまな人に出会っても、あるいは、直接的、間接的にいろんな情報と接しても、一過性の感動や啓発で終わってしまうことが多い。その時だけ「その通り」とか「この人のように生きたい」などと思うこともあるが、自分の怠惰心のせいもあり、それは単なる知識で終わり、知恵のある次の行動にはなかなか至らない。切羽詰まっていないのだろう。大切なことは、理屈や観念ではなく、自分なりに深く考え、行動して、自らが是とするその考えを実践すること。確かに言動でしか、人は相手を評価できない。誠意のない口先だけでは、心は打てない。
「せっかく本を読んでも、その言葉をしっかりと胸に刻み、現実の生活や実際の行動にむすびつけなくては、その価値は半減するでしょう」(日野原重明)
「人から聞いたり教えられたりしたことは本当は自分のものでなく、自らが体験によって得たものでなくては本物ではない」(崎山崇源)
「具体的経験・実践を通じて、初めて真理を活学することができる」(安岡正篤)
「行動のないところに、幸福は生まれない」(ディズレイリ)
「知って行わざるは知らざるに同じ」(貝原益軒)
「本を読むということは物事を知り覚えるということを越えて、常に実践の糧とする」(小島直記)
「どんなにいいことを言ったとしても、本人がそれを実行に移さなければ、その言葉は何の意味も持ちません」(法句経)
「いのちの使い方」の著者日野原重明氏は、1911年生まれの101歳。聖路加国際病院理事長・名誉院長として今だ現役であり、この年になっても執筆活動を続けているのに驚かされる。
58歳の時、「よど号」の乗客としてハイジャック事件に遭遇した。また、医者としてだけでなく、人生を四季の変化に例えた童話「葉っぱのフレディ」を紹介したり、「生活習慣病」という言葉を提唱したり、「ジョン万次郎記念館」の運営に尽力したり、その精力的な活動は多岐にわたっている 。
その一つが、10歳の子どもたちに命の大切さを伝えるために、小学校を訪ねて行う「いのちの授業」。「寿命という空間の中にどう私の時間を入れるかが、私の仕事です」という言葉は、授業の後に生徒が書いた手紙の一文。子どもの時から、命の大切さを学ぶことは素晴らしいことである。
「当たり前のように生きている時間が、人生の大きな宝物である」
「生きるということは、寿命という大きな命を精一杯生きている一瞬一瞬で満たしていくこと」
「その人が何歳であっても、今生きているその年齢を、いきいきと充実したものにしていく」
「命とは、今、あなたが持って使っている時間のこと」
「今日も一日生かされたという感謝の気持ちの連続の中に命は宿っています」
「その人の痛みを他人事と思わず、我が事のように考える感性があれば、言葉は気休めではなく、真の慰めになりえる力になるのです」
「人は黙ってただ存在していること、それ自体が大きな意味をもつ」
コンビニの普及、そして蔓延する生活のコンビニ化。日本人の人間関係や日本らしさがここでも壊れかけている。言葉が死に、人間がロボット化し、無関心が礼儀となった機能だけのコンビニという空間。コンビニで交わされる言葉は限られているため、何を言われても聞き耳をたてる習慣が我々にはなくなっている。人間と人間が出会っているのに、孤独感しかない。
ファミレスでも、「いらっしゃいませ」「少々お待ち下さいませ」「またどうぞお越しくださいませ」など、接客員は客を見ることなく同じせりふを機械的に繰り返す。誰も聞かない言葉がここでも虚しく響く。マニュアル言葉が優先し、肝心なホスピタリティ(おもてなしの心)がないがしろにされている。すべてとは言わないが、コンビニでもファミレスでも、すでに言葉が死んでいる。
「コンビニやファストフード店のレジなどに立っている子、腹話術のお人形さんみたいにマニュアル通りの受け答えをし、客の方も目の前にいきものなぞ存在していないかのように無言のまま商品を受け取って、風のようにその場を立ち去る。ひょっとしたら、そういう無色無味無臭文化に慣れてしまった者たちは、こういう場所では人間の交流なんてあるべきでないといつしか暗黙の自己規制ができあがってしまっている」(「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」(藤原新也))
「いくらコンビニ文化が気楽と言っても、客商売しているのに、毎日毎日あたかも人間が目の前にいないかのような仕事をするというのは、きっと気持ちも渇くはずだ」(同)