「花宴」(あさのあつこ)。西野新左衛門の一人娘・紀江は、亡き母と同じく小太刀の使い手である。三和十之介との縁談が破談となり、十之介を忘れられないまま、父の弟子・藤倉勝之進と祝言をあげる。藩筆頭家老の不正に巻き込まれ、父が死ぬ。勝之進も襲われる。燕、梅、簪(かんざし)などを配しながら、武士の娘の気丈夫さと揺れる想いを描く。
「男子たるもの、いや、人たるもの己を恥じる、廉恥の心をもってこそ真の人と言える。厚顔無恥ほど浅ましいものはないと心しておけ」
「この己で己を持て余す覚え、己で己を上手く抑制できない心持ちこそが人を想うということに他ならない」
「己で己を貶めるなどと見苦しいにもほどがある」
「欲も想いも捨てられぬくせに、なおざりに今を生きている」
「自己反省せず、他人批判に終始すると傲心が生まれる。往々にして組織社会は肩書がものを言う。人間評価を肩書でするようになると、人間の心の表現である挙措振る舞いに関心をもたないようになってしまう」「中国明言選(竹下肥潤)」
組織で働くと、経営者や上司の言葉が理不尽と感じても反発する部下は少ない。人物に頭を下げているのではなく、金(給料)に頭を下げているのだ。肩書を唯一のパワーにする魅力ない人間は、自分が蔑まれていることに気づいていない。
原発事故をテーマにしたサスペンス映画「チャイナ・シンドローム」をDVDで見た。この映画公開(1979年)の12日後にアメリカ・スリーマイル島で現実に原発事故が起こった。
テレビキャスター(ジェーンフォンダ)とカメラマン(マイケルダグラス)は原発取材中に偶然、一時的に制御不能になった現場に立ち会いスクープとして放送しようとするが、原発経営者の圧力、局トップの政治的な意向で放送を止められる。制御室長(ジャックレモン)は事故に疑念を持ち、原因究明を図る。一方、新たな原発建設が計画され、公聴会が開かれる。「事故対策は十分なのでしょうか。廃棄物処理についても明確にされていません。この原発を認可する必要があるのでしょうか」。
東日本大震災から二年。国家的施策としてエネルギー確保は重要な課題だが、福島の原発事故により、全国の原発は稼働を停止し、電力会社は窮地に追い込まれている。そして復興は遅々として進まない。上記の公聴会の言葉は、現代でも新鮮な印象を与える。
「少欲知足」であれば、自分のための時間や主体性を犠牲にしてまで、必要以上の収入を得ることはない。しかし、それがなかなかできない。一方「浮世の馬鹿」であっても、働くことを通して、良き人間関係、貴重な体験、感動、思索など金では得られないものがある。 生活できれば、この言葉は、特に「怠け者」にとっては蜜の味だが…。
「時間を売って給料を貰うことが、いかに人生を、哲学を、楽しみを奪っているかを考えてみてください。機械仕掛けの時計に自己の生活を人生を縛られ、自己の時間管理もできなければ、それは生きることにはならないと思うのです。人生とは自分自身で決定し、創造していくもの。けっして、機械や常識や組織体には創造できない代物なのです」(『成り金とサラリーマン』、松藤民輔)
「余り働かなくて、生活程度をあげないこと。働くことが嫌なら寝ていること。しかし働くことが楽しければ大いに働くことだ。生きていくには社会性を持たないで孤独になりなさい」(深沢一郎)
発達障害の子を持つ親の奮闘、目を背けたくなるほどの現実を描いたコミックエッセイ『母親やめてもいいですか』(山口かこ著、にしかわたくイラスト/かもがわ出版)が話題となっているそうだ。
子育てに疲れ児童虐待する親、パチンコに興じ車中で我が子を熱死させた親、自分の遊ぶ金欲しさに9歳と10歳の兄妹を新聞配達させていた新聞配達員の父親など、親としての愛を失った自己本位の痛ましいさまざまなニュースが報じられる。
一方、子供に不自由な思いをさせたくないと思いながらも、経済的に苦しいため、思うにならず不憫に思う親。子供の悩みを理解しながら、説得力のあるアドバイスや支援ができず、苦しむ親…。
「美しい子を望むなら、親が美しくなることだ。子供を幸せにしたいのなら、まず親の自分が幸せになることだ。不幸な親の下では、幸福な子供は育たない」(同)
「人と人との関係で放っておいてそれでよくなることはない。放っておけば摩滅するだけである。愛するなら自分から進んで愛さなければならぬ」(同)
「人はみな生まれさせられた。自分の父母をすら自分で選ぶことはできなかった。だから、なにごとのために死ぬか、つまり生きる目標を自分で決めるところから私が始まる」(同)
「進歩とは疑問符の積み重ねである」(同)
「人柄とか人間性とか呼ばれるものはなかなか変わらない。自分から決意して変えようとしないなら、ほとんど変わらない。自分から決意して変えようと努め続けるなら必ず変えることができる」(同)
自省の言葉。読書にばかりふけって思索を怠ると知識が身につかない。思索にのみふけって読書を怠ると独善的になる。知識が身につかないとは、知識の断片が雑然と詰め込まれているだけで、生きた知恵として作動しない。
啓発されり、感動を受けたり、反省したりする人物になかなか会えない。そこで読書をするが、表面をなぞるだけで深く考えることがない。専門馬鹿で広範囲な世の中の動きに疎んじていると自己中心になる。 やはり、多様な行動(出会い)と読書を通して、あれこれと考え、悩み、自らを見つめることだ。
「文字で心を洗い、心のノミで顔を彫る」(小島直記)
「そもそも人の『いのち』は死とともに失われていくのだろうか」(「元気」、五木寛之)
義兄の一周忌法要が行われた。故人が亡くなった祥月命日に、浄土宗住職による読経と焼香が行われた。最後に住職が話した。 「仏が人の心に種をまき、花を咲かせます。遺族は亡くなられた御霊を忘れることなく、その思いをいつまでも胸に秘めていく。御霊の声が声を呼び、見えない心が、子、孫へと引き継がれていきます」
仮に葬儀に多数の参列者が集まったとしても、御霊に対する思いは時とともに風化する。生きている者は目の前の生活に追われ、その記憶も薄らいでいく。しかし、記憶は薄らいでも故人に対する思いは本人が死ぬまでなくなることはない。
「死者に語ることはできても、死者は語らぬ。死者の語らいとは、生者の思いである」(古山高麗雄)
「時は去る 人はゆく さびしくとも それが人生である」
「ひとりの人間が死ぬたびごとに、ひとつの世界が滅んでいく」(ショーペンハウエル)
それにしても、日々のお勤めのなかで鍛えられた僧侶の読経は心を落ち着かせ、気持ちいい。呼吸を整えることは長寿の一因かもしれない。
ずいぶん、春めいてきた。梅は満開となり、桜ももう少し。さまざまな色の花が咲き、一年で一番華やかで心躍る季節となる。 この歌のようなテンポのある歩き方はしないが、道端の名も知らない花を愛でながらの散歩は気持ちいい。暖かくなり、健康維持のために、公園などを歩く人も増えてきた。
先日は、好天の下、大宰府天満宮から自宅まで一時間半かけてのんびりと歩いた。 歩くことは、元気の源でもある。「歩くの大好き、どんどん行こう」。
「たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出でありく時」(橘曙覧(たちばなあけみ)「独楽吟」)
「三匹のおっさん」、「三匹のおっさん ふたたび」を面白く読み、同じ著者の作品ということで、本書を手に取った。
「(自衛隊の人たちは)ごく普通の楽しい人たちです。私たちとなんら変わりません。しかし、有事に対する覚悟があるという一点だけが違います」(あとがき)
ほとんど知られることのない自衛隊広報室が舞台だが、最終章で東日本大震災で被災した松島基地の隊員たちの救援活動が描かれる。平和時は「税金泥棒」と悪口を叩かれようと、非常時には、自分の家族を後回しにしても地域の救援を優先するのが使命とされる自衛隊員。現政権での憲法改正も話題になりつつあるが、自衛隊の活動をもっと正しく認識する必要があると思った。
「怒りっぽくて、それでいて自分ではいいと思い込んでいる人には、うかつに相手になって衝突してはならない。なるべく敬遠して黙っているのがよい」
確かに、そのような人間は相手にしないというのが利口かもしれない。経営者しかり。個人しかり。 本人はそれが自分のやり方と考えているかもしれないが、自分がやっていること、言っていることを相手がどう感じているか、相手の気持ちも考えるべきである。 しかし、「言いたいことは言わなくとも、言うべきことは言う」ということも忘れてはいけない。