「漂流者たち」(柴田哲孝)。去年8月に訪れた福島県いわき市の塩屋﨑灯台から、小説は始まる。
男は史上空前の巨大地震・東日本大地震発生時、6000万円の金をリュックに詰め、この塩屋岬にいた。故郷・福島に住む主人公の私立探偵は東京在住時のクライアントから依頼を受け、男を追う。 追跡の北上とともに、各地の震災の様子が描かれる。そして、ストーリーの展開に一部、出会いの不自然さを感じるが、原発がらみの事件の背景が徐々に明らかになってくる。
「後戻りのできる都合のいい人生など、この世にひとつもありはしない」。そう、過去が戻ってくることはない。
「世捨て人のすすめ」(ひろさちや)。「おいしく食べる」とは、どういうことだろう。
おいしい物=手間暇かけた高価で贅沢な料理とは限らない。 独身者が、スーパーで買ってきた弁当で晩御飯を済ませるよりも、橘曙覧の「独楽吟」にある「たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時」のように、質素な食事であっても、家族団らんの中での楽しい食事がいい、という意味か。あるいは生をつなぐ食材や料理を作ってくれた人に感謝しながら食べるということか。要は味覚というより、食事するときの心のありようが大切ということだろう。
「天地雷動(伊東潤)」は、織田信長・徳川家康軍と武田信玄の嫡子・武田勝頼軍が戦った長篠の合戦を描く。
「強き者は弱き者などに同情せぬ。それが分かっていながら、家康は、つい弱き者の気持ちを考えてしまう」 「一将功なりて万骨枯る」、「ブラック企業」という言葉が思い浮かんだ。ブラック企業は新興産業において若者を大量に採用し、過重労働・違法労働によって使い潰し、次々と離職に追い込む成長大企業を指す。経営者の自己の欲望、成功のためには弱者など捨て駒に過ぎないのである。
「生きざま死にざま」は、昨年90歳で亡くなった三國連太郎の自伝的エッセイ。被差別、兵役忌避・放浪・戦争体験、女性遍歴、俳優としての自我、親鸞への傾倒と求道などが描かれる。
「裏切り、裏切られ、悩み悶えながらも自分の好きなように生きた」ことは、その是非は別にして、中身の濃い人生だった。
「精神とは、いかなる理由によっても、束縛されてはならないものだと思います」
「その人の貴賤は生まれからくるものではない。この世で何をしたかという行為によって決まる」
以前読んだ村上龍の「半島を出でよ」と同じく、北朝鮮の特殊部隊が日本でテロ活動を起こすストーリー。大型台風を利用し、東京を水没させようとするテロ組織の意図に対し、国家安全保障会議が招集され、自衛隊、警察が動員される。主人公の自衛隊総合情報部所属情報分析官は、そのテロ活動を未然に防ぐために命を賭して挑むが…。
尖閣問題にみられる中国の動き、大地震などの自然災害、悪化する財政等に加え、このような日本国内でのテロ活動も目の前の危機として十分可能性はある。国家防衛のための自衛隊の存在は、ますます重要視されていく。単なる公務員ではなく、国のために自らの命をかける自衛隊員一人一人の意識と技術の向上が今まで以上に求められている。
「若いとき、時間は無限にあると感じます。やがて人は老いる。そして、この世に何を残せるかを探し始めるのです」。そう言った陸曹長も、テロリストの攻撃を受け殉死する。
「年月を重ね、生きることの彩と陰を知ったとき、人はようやく人生の無常を感じ、死の恐怖と向き合う」
「夜明けに希望を抱き、夕暮れに一日を感謝する。風と光に四季を感じる。膳は一汁一菜で十分だ」
「デッドエンド」(柴田哲孝)。妻殺害で刑務所に収監されていた男が脱走する。男は東大卒で元経産省官僚、その後、官僚を追われ、フリーの雑誌記者になった。脱走の目的は真犯人への復讐と原発関係のインサイダー取引で甘い汁を吸っていた政財界そして警察庁幹部を白日の下にさらすこと。男の娘が誘拐されるが、IQ172の父親同様、中学生の彼女はパソコンを駆使して悪人を追い詰め、警察庁公安課警視や看護師もからんで、事件を解決していく。 著者の「漂流者たち」や「国境の雪」と同じく、この小説も無駄がなく一気に読ませる。
「道は自分で選ぶものだ。そうすれば何が起きても自己責任だし、後悔しなくて済む」。自己責任、う~ん?!確かにその通りだが、実際は後悔することも多い。
去年、「半沢直樹」ブームで名を上げた池井戸潤の作品は、いずれも勧善懲悪のストーリーだ。今回は「ようこそ、わが家へ」。
銀行から中堅電子部品メーカーに総務部長として出向している主人公は、気弱で真面目な性格。その主人公が、電車を待つ乗客の列に割り込んで乗ろうとした男をとがめたことから、男が家族に嫌がらせを始める。一方、職場では押しが強く口が上手い営業部長が不正行為を繰り返す。
「常識人」とは世間一般のルールを守る人、周囲を不愉快にさせない程度の知識や気配りがある人間で、「非常識人」とは犯罪を犯さない範囲であれば、周囲に不快感を与えてもそのことに鈍感で、好き勝手に行動しても構わないと考える人間のことか。果たして自分は常識人だろうか。
「ネットの掲示板は、無責任で感情的な匿名の世界。匿名を利用した言いたい放題、やりたい放題は、現実の世界だって有効なのだ。自分がどこの誰かさえ、わからなければ。」
「人間は誰だってひとりなんだ。そして、それぞれの人生を生きている。さまざまな困難に耐えながら、正しいことさえしていればいつかは報われる──そんな価値観はとっくの昔に粉々になってしまった」
「気楽に生きる知恵」(永六輔)。「週刊金曜日」に連載された無名人語録。「人間関係の基本は言葉によって始められる」と友人の矢崎泰久が前書きで書いているが、この本で取り上げられた無名の人々の言葉は納得できる。 仏教などでは「過去を悔やんでも仕方ない。こだわるな、忘れろ」と説く。しかし、それがなかなかできない。誰にも思い出したくないこと、忘れたいことはあるだろうが、余程のショッキングなことしか記憶に残っていない。思い出せないことはたいしたことではなかったのかも知れない。「人生は心ひとつの置き所」か。
「両親が同じ位置から子供を見ちゃいけません。角度と距離を変えてみつめることが必要です」 「好きな仕事をしてだよ、それで金がもらえるなんて、そりゃないよ。それじゃ、泥棒だよ」(?)
「悪いことをしている奴の多くは、自分が悪いことをしてるなんて思ってません。だから悪いことをしている奴が多いんです」 「御遺体を焼く仕事をやってますとね、人間は平等だということを痛感します」
「私が二十歳の頃に七十歳っていうのは、もう人間とは思っていなかった。私が七十歳になって、二十歳をみていると、あれは人間じゃないよね」
「いい人とか、優しい人とか、立派な人とか・・・、そう言われないように努力しています」
「誰だって忘れたいと思うさ、いろんな辛いこと、不愉快なことは。忘却は民衆の知恵だっていう言葉もあるくらいだ」(木下順二戯曲選)
同じく永六輔の「無名人のひとりごと」(再読)。まだ携帯電話がなかったとき、友人と有楽町の交通会館で待ち合わせしたことがある。お互いすぐ近くにいたのに、なかなか見つけることができなかった。そういった意味でも待ち合わせの時の携帯電話は便利だが、その分、相手の事を心配し、あれこれと思う「ドキドキ」の感情はなくなってしまった。
「テレビには、ありとあらゆる情報がつまっているというけど、ないものと言えば品格と知恵かなぁ」
「テレビねぇ、一言でねぇ…雑魚が群れてるよ」
「オレ達ってさ、テレビやネットのせいで知らなくてもいい無駄な情報を知りすぎていないかい」
「長生きするということは…友達がいなくなるってことなんだよね。…めでたかないねぇ」
「昔の医者は治さなくてもよかったんですよ。なぐさめ上手、はげまし上手がいい医者で、なおさなくてもよかったんです」
「神坐(いま)す山の物語」(浅田次郎)。東京郊外武蔵御嶽(みたけ)山という霊山の神社で、代々神職を務める祖父や父に起こる人々との出会いを描く。
「人の情けを畏れよ。名を惜しめ」。人は普通、言葉や金など人の情けにすがる。それを「有難う」と心から思えるか。そして一方で、人生の主人公としての自分のアイデンティティはしっかりと持つことができるか。 人は一人では生きられない。家族、友人、同僚など社会的関わりの中で生きていく。「人の情け」に感謝しながらも、「自分」という主体性を持たなければならないという一文が印象に残った。