元外務省職員で作家、外交評論家の佐藤優(まさる)氏の話。中国通の宮崎正弘氏と同様、彼の話は面白い。専門のロシア問題だけでなく、国際・国内問題をわかりやすく説く。
悲観主義とは自分自身・世界・将来について悲観的に考え、人はそれを「性格が暗い」という。一方、楽観主義は困難を恐れず、いま目の前の現実にチャレンジし、未来に向かって行動する目的志向を持つ考えのこと。そしてポジティブな 楽観主義者(プラス志向)を肯定し、ネガティブな悲観的主義者(マイナス志向)を否定する。プラス思考の代表例のが中村天風であり、マイナス思考の代表例が五木寛之である。
近年、うつ病患者が増えているそうだ。その症状を調べると、憂うつ感、悲哀感、興味や喜びの感情の喪失などのうつ気分、何をするにもおっくう、意欲・集中力・決断力・性欲の低下、行動の遅滞など生命エネルギーの減退による意欲・行動の障害、考えが進まない、まとまらないなどの思考の抑制や自分、社会、将来に対しての悲観的な考え方などの思考障害、全身倦怠感、食欲不振、不眠、頭痛、肩こり、めまい感、性欲減退、聴覚過敏(耳鳴り)、口渇(こうかつ)、胸部圧迫感、心窩(しんか)部(みぞおち)不快感、吐きけ、腹痛、便通異常、腰痛、手足のしびれなどの身体症状の悪化が見られるとのこと。
「悲観主義者とは、事情に通じた楽観主義者である」と思えば、本人がうつ病でない限り、他人の印象はさまざま、人は好き勝手いうだけと考えればいい。
「寺の掲示板に書いてあった」とネットのブログで見かけた。以前から同じことを感じていたので、我が意を得たりである。
人は言いたいことをいう。一部の評論家もそうだ。しかし、それが自分の体験や正しいデータに基づいたものではなく、真偽を確認しないままの単なる書物やメディアの流用だったり、自己の思い込みだけで客観性を欠いた根拠のないものだったりする。口先だけで、納得して受け入れられる「本当の事」を伝えてくれる人は少ない。
「意なく必なく固なく我なし」(論語)。憶測でものを言わず、自分の考えを相手に押し付けず、一つの判断に固執せず、自分の都合だけでものを考えない(我をはらない)という意味だ。これも自戒の言葉である。
仏教徒は厳しい戒律の中、ストイックな生活を送っている、というイメージがある。一方、ラオスの僧侶はタバコも吸うし、インターネットカフェに出入りしたり、携帯片手に夜の外出も許されるそうだ。
これに対し、ビエンチャンの大きな寺の道場長は、心の平安に向かって努力してさえいれば、あとのことは大目にみる、という。(「無功徳」(玄侑宗久)
金や物に対する欲望、あるいは気に沿わぬ人との接触は心を乱す。「少欲知足」し、「したくないことはしない」「嫌いな人とは会わない」ということができれば、独善的、隠遁的と言われようと「心の平安」になるだろう。しかし、人が社会的動物である限り、「心の平安」を保つことは難しい。
この言葉は、天野祐吉の「隠居大学」(朝日新聞出版)にある。「隠居大学」は、各界人との対談を聴くことのできるNHK「ラジオ深夜便」の一コーナー。
「ひたすらに人の世のため活きなんと思う命に光あるかな」や、仏教の「妄己利他」「捨身」のように自分を犠牲にしても他人のために尽くせ、という教えとは逆説的な発想。「自分さえよければそれでいい(ただし、他人に対する思いやりはある)」、「人は人、自分は自分」、つまり禅語の「主人公」という意味か。
「他人のために暮らすのはもうたくさんだ。せめてこのわずかな余生をみずからのために生きようではないか」(モンテーニュ) 「何もしないのも世のためになる場合もある」(「老活のすすめ」鈴木健二)
人は裕福な時にはすり寄ってくるが、いったん落ちぶれると、たちまち見捨てて顧みない。金、地位、権力の有る者には手もみをしながら近づき、自分に得るものがないと考えれば、手のひらを返すように去っていく。世の常である。
彼らは金、地位、権力に頭を下げているのであり、決して相手の人間性に頭を下げているわけではない。パーティ、結婚式、そして葬儀なども、やむなく義理で参加している場合も少なくない。人を見る目を持つのは難しい。
「肩書を見て友となる者は多いが、人柄を見て友となる者は少ない」(スペインの思想家 グラシアン)
「チャイナ・インベンション」(柴田啓孝)。尖閣諸島をめぐる日中間の緊張が一触即発の状況になっている。この小説は近年の日本と中国の史実を踏まえ、日本が中国から「侵蝕」されるシュミレーションを迫真性をもって描く。
「森林法改正案」と「地下水規制法案」の二つの法案を起草しようとした元代議士・中川昭一は死んだ。多くの日本人は知らないが、東京・名古屋・新潟の一等地にある広大な土地を中国が大使館や総領事館の用地として手に入れる。北海道の自衛隊基地近くの土地も金に糸目をつけず買い付ける。これらは、中国総書記・習近平が用意周到に準備してきた日本侵略のための伏線の一つである。そして、尖閣諸島領空侵犯を契機に日本に宣戦布告。2010年に決議された「国家総動員法」の下、すでに日本に潜伏していた大量の人民解放運兵士が蜂起する。
本書は予備自衛官、フリーライター、警視庁公安部警視らを登場させ、すぐ目の前にある国家存亡の危機に対し、平和ボケした日本人に警鐘を鳴らす。
「まかり通る」 (小島直記)。 人生は無常で、何が起こるかわからない。「だーい好き!」が「大嫌い!」になり、「我が恋の早まりしかな、この寝顔」になる男女関係。「男女の睦みというものは美しいものじゃが、ひとつ食い違うと胸が悪くなるほどに醜くなる」(風神の門、司馬遼太郎)。この世では、変わらないものなど何ひとつない。永遠不変を誓った恋愛もいずれは変わっていく。 あるいは、金、地位、権力に媚び、右往左往するサラ―リーマン。 好意があると思っていた相手が、いつか心が変わり、裏切ったり、無視したりすることがある。
人の心が時間と共にに移り変わるのは世の常。それだけにどんなに状況が変わろうとも、信じ切れる人がおり、主体性と人を見る眼をもって我が道を行く生き方は貴重である。
「実と虚のドラマ」(佐高信)。話し相手の気持ちを忖度(そんたく)することなく、自分のことだけを一方的に話す人がいる。自分の意にそぐわぬと、すぐ怒りが顔や目に出る人がいる。 一方、自分の悩みや苦しみに耐えながら、話し相手の言葉にうなづく人がいる。
「話し上手は聞き上手」というが、相手の気持ちになり思いやりをもって、じっくりと他人の話を聞くことのできる人は少ない。 ビジネスシーンであっても、場合によっては、寡黙な人の気持ちを思いやらなければならない。
「無名人のひとりごと」(永六輔)。不景気による制作費の削減のためか、テレビ人のレベルが下がったのか、BSはいいものがあるが、旧来の地上デジタルのテレビ番組がつまらない。テレビ離れが進む。
アイドルとお笑い芸人を寄せ集めた安易なクイズ番組やバラエティ、情報不足で思い込みだけで話す素人のコメンテーター、視聴率を上げんがためのやらせの番組宣伝、したり顔で話すニュース解説者、芸もなにもないタレント、重厚な時代劇も減った・・・。 テレビ業界も、昔に比べて安っぽくなった印象を受ける。
「本当はなくても済む。むしろ、ないほうがよい。人によってはテレビとはそんな存在だ」 「今のテレビ局は金儲けのためにドラマを作っている」(脚本家・山田太一)
「本物の芸人も役者もほとんどいなくなった。誰もが素で出ている。バラエティという意味不明な造語の中で与太話として金をとる。楽して儲けようとする志の低い芸能人が多すぎる」(伊東四朗)
「のべつ雛壇に芸人集めて駄弁るの、テレビでやってるだろ。あれ、面白いのか…?お笑いで言えばサ、今テレビじゃ小洒落た振りして底が浅くて、芸も薄い芸人ばかりに見えるよな。でもさ、初めは汗かいてお笑い道歩いていたのが多いんだよ。ところがサ、人気がお金に変わった途端、努力もスキルもそこで放り出す人、多いじゃない?」(さだまさし、「ラストレター」)
NHK「ラジオ深夜便」の一コーナー「明日への言葉」で、精神科医・夏苅郁子(1954年生まれ )さんのインタビューを聴いた。 小学生の時、彼女の父は女を作り、生活費を家に入れない。その結果、母親が精神疾患の統合失調症にかかり、部屋の隅にうずくまり、せんべいを食べる日が続いた。中学時代はいじめを受け、母親と別れて祖父に養われ、両親は離婚する。両親に愛情をもって育てられた子供と違い、彼女は苦悩の中で数度の自殺を図る。母親は78歳で死去。
冒頭の言葉は、同じような環境にあった中村ユキさんのコミックエッセイ。重い気持ちの中で、この放送を聴いた。