「中国崩壊カウントダウン」(石平、宝島社)

2014/09/25

著者は「中国は崩壊の歴史を繰り返してきた。そして、現習近平政権もまもなくそうなるだろう」と説く。その理由として、各王朝の崩壊の歴史は①権力者による国家の私物化と人民からの収奪②反乱勢力の主力をなす流民の大量発生③知識人の王朝の離反、の三つを原因として挙げている。

   

確かに、現政権も①政権を支える幹部たちが私利私欲のために権力を乱用するという腐敗の蔓延②2億6000万人ともいわれる農民工や1000万以上と言われる就職先が見つからない大卒失業者(蟻族)③権利意識に目覚め、自らの権利を守るために公然と体制批判を行うようになった研究者、メディア、一般市民(納税者)の存在が広がってきた。一党独裁の支配体制は確実に弱体している。

特権を乱用して国家を私物化していく政権幹部の腐敗は、無計画な投資拡大で莫大な不動産在庫と企業の生産過剰を生み出し、それらは回収不能な不良債権と化している。不動産バブルは崩壊し、シャドーバンキングは破綻し、農民工や蟻族らの大量の流民や民衆が暴徒化していく。そして社会秩序が乱れ、中国という国家が崩壊していくというシナリオがいよいよ現実味を帯びてきた。

「麒麟の舌を持つ男」(田中経一、幻冬舎)

2014/10/02

「麒麟の舌を持つ男」とは、一度味わった味を必ず再現できる料理人のこと。この小説では、戦前と現代という時代のつながりの中で、二人の「麒麟の舌を持つ男」が登場する。

その一人は、日本料理、フランス料理の修業を経て宮内省の料理人となった山形直太朗。彼は関東軍司令部の命令で、天皇陛下が満州行幸の際、中国料理の最高峰・満漢全席を超える「大日本帝国食菜全席」を出す準備のため、妻とともにハルビンへ赴任、若いが料理の腕が高い元宮廷料理人・楊晴明とともに、そのレシピ作りに励む。しかし、全部で204品、全体を「春」「夏」「秋」「冬」の4部構成からなるレシピ作りの本当の狙いは関東軍の陰謀にあった。

もう一人は、佐々木充。一日8名限り、一人4万円の料理にこだわり抜いた日本料理店を開くが、4000万を超える借金を抱えて閉店。現在の仕事は、死期の近づいた病人が求める料理を高額で提供する「最後の料理請負人」。その佐々木が、迎賓館「釣魚台国賓館」料理部門のトップになった99歳の楊晴明から、北京に来るよう請われる。目的は楊が求める料理を作ることではなく、山形が残した「大日本帝国食菜全席」のレシピを再現すること。

著者はテレビ番組「料理の鉄人」を演出。戦後、日本と中国に分散したレシピの所在と経緯、山形と家族、そして佐々木とをつなぐ偶然ともいえる人間関係、エピローグでの楊晴明と山形の娘の北京での再会など、よく練られたストーリーの構成と展開が時間を忘れさせる。

「ラストレター」(さだまさし、朝日新聞出版)

2014/10/17

コンサートやNHKの「今夜も生でさだまさし」で耳にするトークもそうだが、この小説も笑った。ほろりとなった。そして、最終章は涙が出た。

ラジオ局入社4年目のアナウンサーが深夜番組を担当することになった。昭和の時代を意識した、聴取者からの葉書だけで各コーナーを構成する新番組だ。本のタイトルの「ラストレター」とは、心温まる話を紹介する番組最後のコーナーを指す。「誰もが小さな人生を歯を食いしばって生きている。その小さな生命の声を、己の心の耳を澄ませて聴け」、「小さな人生のふとした溜め息のような体温を伝えたい」。ラジオに携わる人々の思いが伝わってくる。

シンガーソングライターとして高い評価を受けるさだまさしだが、たぶん彼にも人には言えない辛いことや悲しいことがたくさんあったのだろう。それが本書での思いやりや優しさとして表現されている。

「破門」(黒川博行、KADOKAWA)

2014/10/25

映画製作のために投資した金を、やくざが騙し取られた。この小説は、その金を取り戻すためのドタバタ劇を描いており、重いシリアス感はない。印象に残ったのは、主人公らの積極的な行動力とユーモアを交えた頭の回転の良さ。

暴対法などによって、やくざのシノギは減り続け、暴力団は”斜陽産業”となり、組員数も減少傾向にあると聞く。事情があって、この世界に身を置いた男たちの将来は暗い。時代の変化とともに、社会状況も変わり、やくざの世界も縮小していく。いいことだ。

日本のやくざ小説といえば、飯干晃一の「山口組三代目」や「山口組三代目 田岡一雄自伝」。山口組は現在でも、日本のやくざ世界に君臨する最大の暴力団だが、田岡一雄組長の時代が一番ドラマチックだったのだろう。

「かぶく」(典厩五郎、毎日新聞社)

2014/10/26

左馬助は信長の兄弟・長益(茶人有楽齋)の嫡男つまり信長の甥で、子供の頃から「身ノ丈六尺餘、偉丈夫也」、「行状、風狂に似たり」のかぶき者だった。

「織田左馬助自由狼藉一代記」という副題に魅かれて読み始めたが、途中何度か読むのをやめようかと思った。自分の理解力や集中力が足りないのか、信長、秀吉、家康に関わる登場人物が複雑に錯綜し、肝心な主人公の活躍が今一つ見えてこない。文章は著者自らの知識を横にひけらかすかのような冗長な印象があり、小説としての芯が弱いと感じた。だから、主人公の人となりを論じるほど読み込んでいない。