「紫匂う」(葉室麟、講談社)

2014/06/09

葉室麟の他の著作と同じく、この作品も読後、夫婦の信頼感、武士としての潔さなど、清涼感が残った。

  

黒島藩六万石の国家老・黒瀬宮内の汚職を知った江戸詰側用人の葛西笙平は、国許に送り戻され、命を狙われる。笙平と、父親が友人で隣同士であったことから幼馴染だった澪は、出仕する夫・萩蔵太を家の前で見送った直後、笙平と偶然再会する。二人は相思相愛の仲だったが、陰謀で引き離されていた。澪の女心は夫と笙平の間で揺れ始める。

主要人物の3人に加え、黒瀬宮内と結託した大地主・桑野清兵衛、夫亡き後、その清兵衛に再嫁した笙平の母・香、藩主の母・芳光院、笙平と離縁し宮内の愛人を続ける志津らも、この作品の構成に不可欠な登場人物である。

そして、笙平捕縛の騒動は一件落着。芳光院の山荘・雫亭の庭にも、心極流の達人・萩蔵太が澪を思って自宅に種をまいていた紫草の白い花が咲いていた。

「アトミック・ボックス」(池澤夏樹、毎日新聞社)

2014/06/11

癌で亡くなる直前、父親は1枚のCDを娘に託した。そのCDには、かつて父親が関わっていた国家機密プロジェクトの経緯と研究データがコピーされていた。プロジェクトのテーマは原爆の開発。しかし、アメリカの横やりでプロジェクトは中断、研究スタッフは解散させられる。データは北朝鮮の核開発資料となった。そのことが発覚することを恐れた公安は、父親の死後、CDを回収しようと娘に迫る。

友人らの支援を受けて、舞台は広島の小島から東京へ。主人公の公安と警察からの逃避行は、息を切らせず一気に読ませる。池澤直樹の作品は初めてだが、面白かった。

「のぼうの城」(和田竜、小学館)

2014/06/18

「のぼう」とは、「でくのぼう」(役に立たない、気の利かない)の意味。時は乱世。天下統一を目指す秀吉の軍勢が唯一落とせない城があった。それは、周囲を湖で囲まれた「浮き城」の異名をもつ忍城(おしじょう)。北条方の城代・成田長親は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁も勇もないが、領民には誰にも及ばぬ親しみや人気があった。

秀吉の命を受けた石田三成が総大将として、圧倒的な戦力で忍城に開城を迫る。しかし長親は敵方の軍使から発せられた、ある一言で秀吉の軍門に下ることを拒否し、三成の軍を翻弄する。智謀に長けた三成とは正反対の長親。茫洋とした人物で、勇ましい戦国武将のイメージもない。

著者のベストセラー「村上海賊の娘」同様、この主人公も歴史の表には出ていないが、他の個性的な登場人物の各々の言動も加わって、ストーリーの展開に時間を忘れる。

「国境の雪」(柴田哲孝、角川書店)

2014/06/22

ハラハラドキドキの連続、最後の最後での衝撃的な結末で、柴田哲孝の他の作品とは一線を画すエンターテイメント小説に仕上がっている。

北朝鮮の国家機密情報を携えて、元ヨロコビ組の女が脱北、中国へ渡る。異常事態を知った国家安全保衛部が追跡を始める。舞台はハルビンからネパールまで中国を横断、協力者を得た女の逃亡劇が息を継がせず、無駄な個所はなかった。

本書は、その逃亡劇に、北朝鮮、中国、中東、アメリカ、そして日本など、現代の国際情勢の動きとともに、各国家元首らの思惑や国益がからんで、「やめられない、とまらない」ほどの面白さだった。

「にんげん住所録」(高峰秀子、文芸春秋)

2014/06/29

5歳で映画界に入り、55歳で自ら女優を退いた高峰秀子の、雑誌に連載された随筆集。主体的で細かな観察眼や感受性に基づいた達意の文章を読んでいると、彼女の気品、聡明さ、闊達さ(小さなことにこだわらない)、気遣い、迫力が伝わってくる。

「人間の持つ卑しさ、おぞましさ、あさはかさなどをイヤというほど見せつけられた」養母を反面教師としながら、伴侶・松山善三との結婚生活に唯一、心の安らぎを得た。彼女の願いは、「老人になったらじたばたせずに、人様の邪魔にならないように、ひっそりと静かに暮らすこと」。

小津安二郎や黒沢明などの映画関係者、故佐藤栄作首相夫人、美智子様、邱永漢他、多岐にわたる交遊録も彼女の魅力を引き立てる。