「王とサーカス」(米澤穂信、東京創元社)。ネパールは中国とインドに挟まれ、エベレストを擁する、農業と観光を主産業とする貧しい国だが、近年、日本語学校で学ぶ若者も増えてきている。彼らは、かつての中国のように未来の自分たちの豊かさを求めているのだろう。
この作品はネパールの首都カトマンズを舞台にしたサスペンス。新聞社をやめたばかりの女性主人公は、知人の雑誌編集者から海外旅行特集の仕事を受け、事前取材のため、カトマンズに向かった。その短期滞在中、王室の晩餐会で国王と王妃が撃たれ、軍人が大麻の密売に手を染め、臆病なアメリカ人学生が勇気を得るために一丁の銃を持ち、穏やかな日本人僧侶が金のために軍人を殺す…。
「ジャーナリズムの仕事には、他人の悲劇を見世物にしている側面がある。そして自分もネパールの悲劇を生活費に変えようとしている」と悩む主人公、「あんたのようなよそ者が訳知り顔で俺たちは悲惨だと書いたから、俺たちはこの街で這いずり回っている」と考える少年。自らの使命を模索するジャーナリストと、そのジャーナリズムに反発する少年を中心に、本作品を面白く読んだ。
「浮遊」(高嶋哲夫、河出書房新社)。大学病院脳外科に勤める主人公が、婚約者が同乗した車で大型トラックに追突され、死亡。婚約者も片足切断などの重傷を負うが命は取り留めた。この小説の主人公は、その大学病院の研究施設で生き続ける事故後の健全な脳。脳を主人公とする発想がユニークだった。肉体はすでに荼毘に付したが、研究施設内では残された脳がが生き続けている。大学内での権力争い、同僚の思惑、生と死、自己原因の真実などを、その脳は暗闇の中で聞き続ける。
「人はいずれ死ぬ。それが多少早いか遅いかに過ぎない。だったら好きに生きよう。後は成り行き任せ」。その通りだが、実際に好きに生きることは、さまざまな制約があってなかなか難しい。
「死を抱いて人は生まれ、死を抱えて人は成長する」は、伊万里駅へ向かうバスの車窓から見かけた寺院の門に掲げられていた言葉。
吉田兼好の「徒然草」にある「若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期(しご)なり」にもあるように、死を意識してこそ、生が充実できる 「人常に死を憂い、病を慮(おもんぱか)らばまた幻業を消(しょう)して、道心を長ずべし(菜根譚後集24)」。いつも死を意識し、病のことを心配していれば、色欲名利よりも、もっと大切なものがあることが分かる。
「海は見えるか」(真山仁、幻冬舎)。阪神・淡路大震災で妻と娘を失った教師が死者・行方不明者が1万8千人に及んだ東日本大震災も体験し、被災地の現実に直面する。しかし、「売国」や「雨に泣いている」に比べ、本書に対する印象は、あまりなかった。
確かに気の向くままに生きることができればいいが、現実問題としては難しい。個人の考え方、人間関係、金、自己の欲望などの理屈や事情があるからだ。
「何があっても時間は過ぎていくし、日常は続いていく。教訓を学ぼうが学ぶまいが、人は明日に向かって生きている」
「人間てな、大好きな人には幸せになってほしいと思うねん」
「先生は優しい方です。でもそれは時として、人の心を傷つける場合があることをご存知ですか。」
海底マグマが噴出し、首都圏が壊滅状態になる。主人公の元建設会社社員、彼の学生時代の同期で元経済産業省の官僚、大学教授、鉱山石油関係の実業家、政府官邸らの動揺と命を懸けた行動が描かれる。
この「ゼロの激震」(安生正、宝島者)は「生存者ゼロ」、「ゼロの迎撃」に続く三作目のパニック小説。著者が現役の建設会社勤務ということもあり、専門用語が駆使され真に迫る。しかし、このパニックは自然災害ではなく、人為的施策が原因だった。
現在、日本列島は大きな変動期に入り、大地震や火山噴火だけでなく、このような海底マグマの噴出の可能性もあり、フィクションとは言えない危機的状況にあるのかも知れない。
「ごまかしの利かない瀬戸際だからこそ、人は嘘偽りのない能力と志を試される」
「恐れるな。結果を恐れるのではなく、為すべきことから目を背けることを恐れよ」
「十字路が見える」(北方謙三)。秀吉の「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と同じく、人生夢の如し。しかし、人生が煙とか幻とか言ってしまえば身もふたもない。
人は奇跡的な縁で生まれ、長くても100年を満たない命を紡ぎ、金銭、物、権力、飲食、性など、様々な欲望や出会いに振り回されながら、それぞれの人生を生きていく。
要は生きた時間の長短ではなく、また人と比較することなく、どれだけ自分だけに与えられた自分の人生を主人公として、運命に翻弄されながらも、充実した意義ある時間を過ごすかである。菜根譚の「天地は万古有るも、この身は再びは得られず。人生は百年なるのみ。この日最も過ごし易し。幸いにその間に生まるる者は、有生の楽しみを知らざるべからず。また虚生の憂いを懐かざるべからず」という言葉を思い出した。
「2025年問題」という言葉を知った。2025年頃の日本では少子高齢化がさらに進んでいることもあり、65歳以上が総人口の3分の1(2016年時点では4分の1)、団塊の世代と呼ばれる75歳以上が5分の1になるだろうという。
その結果、高齢者に対する医療、福祉、介護サービスの需要がさらに高まり、社会保障財政の運営に影響が出ると見られている。同じように、2033年には空家率が30%に達するという予測もある。日本の活力が失われていく。今の子供たちに明るい未来はあるのだろうか。
「家族という病」(下重暁子、幻冬舎新書)。「親はなくても子は育つ」という言葉がある。親が貧しくても、事情があって一緒に生活することができなくても、親の自己本位な虐待があっても、生きてさえいれば子供は成長する。そして、それぞれの考えや思いを持って自立していく。
子供はその成長過程で大人から子供まで、いろいろな人と出会い、刺激を受け、切磋琢磨しながら大人になっていく。しかし子供が自立できるまでは親の子供に対する対応が、子供の将来を決める大きな要素となる。
「ガンルージュ」(月村了衛、文芸春秋)。著者の作品は過去、「土漠の花」「影の中の影」「槐」を読んだが、いずれもスピード感のある戦闘シーンが印象的だった。
韓国の要人が韓国の情報機関によって群馬の山荘で拉致される。中学校教師とその学校に息子が通う主婦の二人がその拉致事件に息子らとともに巻き込まれる。警察と日本政府は拉致実行犯の国外逃亡を見逃そうとしていた。教師は日体大武道学科を卒業した訳ありの女性。主婦は警視庁公安部やFBIで特殊訓練を受けていた。公安官であった主婦の夫は拉致実行犯の首謀者によって以前殺されていた。二人の女性と拉致実行犯との死力を尽くした戦闘。一気に読んだ。
「おれは清麿」(山本兼一、祥伝社)。信州で刀の魅力に取りつかれた源清麿が、江戸に出て修行し、不朽の名工に成長する姿をテーマにした小説。「利休にたずねよ」同様、武士のような組織人ではなく、孤高の道を求め続ける男の生き方を描く。
「大人が本当のことを言ったら、喧嘩になる」。相手の状況、親密度、立場、考え方などによって対応の仕方は異なるだろうが、思ったことをそのまま相手に伝えると相手が不快感を感じることは往々にしてあり、喧嘩になることもありうる。自分が言いたいことをどこまで抑えて、相手に自分の意図を伝えるかは、こちらの力量や相手に対する配慮、判断力次第だ。