「草雲雀」(葉室麟、実業之日本社)。草雲雀とはコオロギのこと。雄はチリリリと美しく鳴く。 町道場の師範代を勤めて小遣いを稼ぐばかりの部屋住みの身の清吾。人付き合いが苦手で口下手、なんとなく優柔不断と思わせる一方、剣を取らせては快刀乱麻を断つが如き果敢さを見せる。そんな清吾の剣術道場の友人である伊八郎が筆頭家老になることとなり、その用心棒を頼まれる。用心棒になれば、藩の剣術指南役となり子どもを持てる身となれるため、申し出を引き受けるが、伊八郎の出世を阻む刺客に次々と襲われる。
「人が何ごとかを為すのは大きな器量を持つ故でなく、草雲雀の如く小さくても、己も人も裏切らぬ誠によってだということでございます」。誠とは嘘・偽りのないこと、素直で真面目な心のこと。誠の心を持ちたい。
「鬼神の如く 黒田叛臣伝」(葉室麟、新潮社)。江戸時代前期、筑前黒田藩に起きた御家騒動を描く。2代藩主黒田忠之は倉八十太夫を重用して専制を行い、幕府の諸侯取りつぶし策に口実を与える事件を続発させた。そこで筆頭家老栗山大膳は、失政を理由とした藩の取りつぶしを防ぐため,寛永9 (1632) 年、忠之に逆意がある旨を幕府に訴えたが、対決する忠之が勝ち、結果的に除封を免れ藩の危急を救った栗山は南部藩 (→盛岡藩 ) へ預けられ、倉は高野山へ追われた。
「わがままで短気で粗暴で思慮が浅い」「短気であるが故に血気に逸り、さらに我が強くて好き嫌いが激しい」と評された忠之と「好学であり努力家であり責任感もあり、儒学や漢学、詩文などの教養も身につけていたが、押し付けがましく傲岸なところがあった」と言われた大膳の二人の対立が黒田騒動の原因だった。大膳は「乱を起こすには,若いも年寄りもあるまい。ただ、おのれの行く道を信じ迷わぬ者だけが力強き者に抗して立つのだ」と信じて、この対立を生んだ。そして、結果的に黒田藩は改易されることなく、存続した。
「超高速参勤交代 老中の逆襲」(土橋章宏、講談社)。前作「超高速参勤交代」の続編。磐城湯長谷藩の取りつぶしに失敗し蟄居していた老中松平信祝(のぶとき)が復活し、再びその目的達成を図る。今回の勧善懲悪は、その湯長谷藩への帰郷途上(交代)に起きる。
「生まれではない。人の大事とは誰と出会ったかだ」は、追い詰められた信祝に対して、湯長谷藩藩主政醇(まさあつ)が叫んだ言葉。
「傷つく者の気持ちがわからぬ人はまことに強うござる。己の思うまま、赤子のように生きればよいのですからな。泣く子には勝てない道理でござる。しかし、成長してもなおその性質(たち)が治らぬということは生育が行き届いておらぬ、すなわち、馬鹿ということでございますな」。これも、金と権力こそ力と信じ、民の事を見ようとしない信祝に向けられた政醇の言葉。
ネットの芸能ニュースで、「神対応」という表現を見かけることがある。特に芸能人が、その場の状況に称賛されるべき、配慮のある対応をした時に使われる。この言葉はネット用語だろうが、この場合の神とは何を意味するのか。
同様に「黒歴史」という言葉も気になる。黒歴史(くろれきし)とは、アニメ作品「∀ガンダム」に登場した用語で、ネットでは現在、人には言えない過去の恥ずかしい言動としてつかわれているそうだ。時代と共に新しい言葉が生まれていく。
言葉が新しく世に出るだけでなく、昔から使われてきた日本語の意味が時代と共に変化することは仕方ない。それだけに、古典から始まる「美しい日本語」を意識したいと改めて思う。そのためには、日常の言葉遣いの中で言葉を選び、その言葉の本来の意味を正確に理解して、寡黙であっても言葉を発する時は、気づかいのある「美しい日本語」を使いたいと思う。亀井勝一郎は「美しい行為は、美しい言葉から生まれる」と言った。
「陶炎 古萩李勺光秘聞」(鳥越碧、講談社)。秀吉の朝鮮遠征で捕虜となり、日本へ連れて来られた朝鮮一の陶工・李勺光(りしゃっこう)。毛利家の庇護のもと、萩焼の始祖となる。
主人公は、文禄の役で夫を亡くし、一人息子とも別れさせられて、李勺光の世話を命じられた志絵。そこに、早春の浜辺で出会った青年武士・加納弘太郎がからみ、著者の「秘恋 ─日野富子異聞─ 」同様、二人のお互いの秘めた思いが生まれる。しかし、志絵は「権力におもねることなく、責任感が強く、何事にも誠心誠意。どんな人をも差別することはない優しさ。高く、清らかな心意気。真摯に精進する姿勢。すべてを抱き込む包容力の大きさ」を持つ李勺光の妻となることで、三人それぞれの気持ちも変化していく。
「真実の愛とは、自己の滾(たぎ)る思いを顕わにするでも、相手に自分の思いの丈を言い募るのでもなく、相手の事をなにより大切に考えて、世のしがらみ、中傷、道義、節理、すべての割れ目からひっそりと愛する人を守り切ることではないか」
「人が生死の窮地に立った時、表向きの意地や拘泥など一瞬にして忘れ、あふれ出るのは本音だけだ」
市の文化センターで映画「アリスのままで」(2014年 アメリカ 監督:リチャード・グラッツアー/ウォッシュ・ウエストモアランド 主演:ジュリアン・ムーア)を観た。
50歳の言語学者アリスは愛情にあふれた夫と3人の子供に恵まれ、充実した生活を送っていた。しかし、その幸福な日々が暗転。「若年性アルツハイマー病」と告げられ、彼女の記憶が日々に失われていく。そのことを自覚したアリスはその苦悩と葛藤の中で、自分の映像と共に死の覚悟をパソコンに保存する。
「願いはひとつ。最後の時まで自分らしく生きること」は彼女が自分の現状を伝えるために、スピーチした時の言葉。記憶が失われていくなかで、「自分らしく生きる」とはどういうことなのだろうか。 人は加齢とともに記憶力が弱まり、物覚えが悪くなる。記憶などの認知機能の障害が起きると認知症となり、徘徊などの異常な行動や、物を盗られたという妄想も出る。
この映画は「老いの苦」を描き、主演のジュリアン・ムーアはアカデミー賞主演女優賞を受賞した。
「わが心のジェニファー」(浅田次郎、小学館)。ニューヨークで暮らす主人公が、恋人にプロポーズした時、「日本を一度見てきてほしい。プロポーズは、その後受ける」と言われ、3週間の休暇をとって日本へ向かう。彼の両親は幼いころ離婚し、祖父母に育てられる。そのことを回想しながら、JAL機内や成田空港の施設、新宿、京都、大阪、別府、そして釧路への旅を通して、日本人の心や日本の文化、歴史を体験していく。
それぞれの場所での出会いが語られるまま、エピローグへ。「君が嘘つきなら、小説家になればいい」と言った著者のエンターテイメント的想像力は評価できるが、恋人がなぜ「日本を見てきてほしい」と言ったのか。どんでん返しのワクワク・ドキドキを期待していたが、それはなく完結。今一つの印象が残った。
作家・安部龍太郎氏の講演を聴いた。福岡・久留米高専機械工学科に入学したものの、自分の将来はこのまま大手企業に就職することではないのではないかと悩み、一年間休学。その間、無頼派と呼ばれた太宰治、坂口安吾、檀一雄などの作品を読み、小説家を志す。卒業後、東京都太田区役所に就職、後に図書館司書を勤める。28歳の時、出版社勤務の友人に誘われ、インドへ旅行。街を歩いていた時、路上生活者と思われる少年らに囲まれ、金をせびられる。
「人間、あるがままが尊い」という言葉は、貧しいながらもきれいな目をした少年たちと対したとき、安部が「忽然」と感じた言葉。金、地位、名誉、権力は多くの人間が求める欲望だが、安部にとっては「あるがまま=自分にとって正直な気持ち」の方が大切ということだったのだろう。安部は翌年、区役所を退職。妻子がいながら作家の道一本で生きていこうと決心する。
講演の最後に質疑応答があった。「好きな人物はいますか」の質問に、安部は「苦難を乗り越えてきた人」と答えた。
(山本周五郎、「初蕾」)。「ごらんなさい。この梅にはまた蕾がふくらみかけています。去年の花の咲いたことなどわすれたかのように、どの枝も初めて花を咲かせるような新しさで…。過ぎ去ったことは忘れましょう。7年前のあなたと今のあなたは違います。帰ってくる半之助にとって自分が初蕾であるように…」
若い武士・半之助と廓一番の人気遊女・民が恋に落ちる。しかし、女はその身分の違いを気にして、二人が結ばれることはなかった。半之助は人を刀で傷つけたことで出奔、父親はそのため職を解かれる。一年後、半之助の実家の前に男の赤ん坊・小太郎が捨てられていた。民は梅と名を変え、その子の乳母として住み込み始める。実は小太郎は半之助と民の子供だった。そして、半之助は昌平黌の講師として帰国。ハッピーエンド。
冒頭のセリフは、半之助の母親が民に向かって言った言葉。過ぎ去ったことは忘れ、気持ちを切り替えて新たな生活に向かうことが幸せにつながる、と説くが…。
「蛍草」(葉室麟、双葉文庫)。切腹した父の無念を晴らすという悲願を胸に武家の出を隠し女中となった菜々。意外にも奉公先の風早家は温かい家で、当主の市之進や奥方の佐知から菜々は優しく教えられ導かれていく。だが風早家に危機が迫る。前藩主に繋がる勘定方の不正を糺そうとする市之進に罠が仕掛けられたのだ。そして、その首謀者は、かつて母の口からきいた父の仇、轟平九郎であった。亡き父のため、風早家のため、菜々は孤軍奮闘し、ついに一世一代の勝負に挑む。そしてハッピーエンド。
素直で、健気で、芯が強いヒロイン。著者の作品は、いずれも美しき心映えを胸に、毅然として生きる人々を描き、清涼感が残る。
「人にとって大切なものは様々あるが、ただひとつ上げよと言うならば心であろう。心なき者は、いかに書を読み、武術を鍛えようとも、おのれの欲望のままに生きるだけだ。心ある者は、書を読むこと少なく、武術に長けずとも、人を敬い、救うことができよう。」
「自分を大切に思わぬ者は、人も大切にできはせぬ。まずは精一杯、自分を大切することだ。どんなに苦しかろうと、いま手にしている自分の幸せを決して手放してはいかん。幸せは得難いもので、いったん手放してしまうと、なかなか取り戻せないのだぞ。」