「アントキノイノチ」(さだまさし)。「元気ですか…!?」のアントニオ猪木をもじった同名の映画を見て、原作を読んでみた。ストーリーは映画と少し違ったが、老人らの孤立死、同級生の自殺、レイプされた娘の流産など、この小説のテーマは「命」。
高校時代の登山部での殺意や遺品整理業を通しての様々な死が描かれる。 高校時代いじめられていた主人公は精神失調が進み中退、父親の後輩が営む遺品整理業の研修社員として働き始める。
「彼は若くて、生きることの本当の重さを知らないから、こんな風にあっけなく人の命を奪うことができたのだろうか」。生きることの本当の重さとは何だろう。
「ブログ荒らしは匿名の向こうに身を潜め、徹底した責任逃れの策を弄し、自身の安全を確保したうえで、平然と人を傷つけて楽しむ」
「役場に勤めている人っつうのはさ、いっぺんも自分でお金を稼いだことのない人たちなのよ」
「フォルトナの瞳」(百田尚樹)。死を間近にした人間の体が透けて見えるという能力を持った主人公は、彼らの死を未然に防ごうとする。しかし、その影響で自分の脳と血管がボロボロになり狭心症がひどくなっていく。唯一、自分と同じ能力を持つ医者も、それが原因で亡くなる。 町工場での車のコーティング技術が認められ、社長から独立を勧められた主人公は、幼いころ、火事で両親と妹を亡くした時から天涯孤独、そして真面目で誠実、努力家の彼は女性には晩生(おくて)。その彼に恋人ができた。しかしある年の師走、街ゆく人々や電車の乗客のなかに指が透明に透けて見える人が多いことに気付き、自分を犠牲にしても彼らを救おうと行動を起こす。(エピローグで恋人も同様の能力を持っていたと書かれていたが、それは予想していた)
「人間というのは自分がいつ死ぬかがわからない。で、たいていの奴が水で薄めたみたいな生き方をしている」。誰にも一寸先はわからない。しかし、わからないからこそ、生きていられる。そして、生がいつまでも続くような錯覚にとらわれている時、自分たちの生は緊張感を失い、弛緩しがちになる。この自分はまだまだ死なないという思いが、「水で薄めた生き方」になっていく。
「四季はなほ定まれる序あり。死期(しご)は序(ついで)を待たず。人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし」(徒然草)
「花のように生きる」(平井正修、臨済宗全生庵住職)。
首相時代の中曽根康弘が平井の姉に書いた色紙の言葉。「命の限り踊れ」とは、全力で生きなさいということか。死ぬことを意識すると、一所懸命、今を生きようとする気持ちが湧いてくる。
徒然草の「死を憎まば生を愛すべし」や酒井阿闍梨の「一日一生」も同じこと、要は生ある今を一所懸命に生きろという事だ。
「中国古典の人間学」(守屋洋)。人の幸不幸は他と比べて判断されることが多い。貧富、健康・長寿、能力、家庭環境、仕事、社会的地位や権力、若い時の容貌の美醜、知識や経験、所有物の多寡…。自己の欲求や関心の度合いにより価値は相対的なものとなるが、このように人は相対的な物の見方で価値を決めている。それが結果的に幸不幸の判断につながっていく。
「人生は心ひとつの置き所」(中村天風)。他と比較せず、絶対的価値を自分の中に置けば、周囲に振り回されることはない。老子や禅語なども同じことを言っている。他と比較するな、他人は他人、我は我、と。般若心経の究極的思想は「空」。
「人間本来無一物」。自分にとっての絶対的価値とは、命、心、時間(今)、そして自由。
「死にとうない 仙厓和尚伝」(堀和久、再読)。博多には古来、三派三利といわれる禅宗の名門がある。藩主黒田家累代の菩薩所である大徳寺派の崇福寺、宋から帰朝した弁円円爾(聖一国師)の開山になる東福寺派の承天寺、そして妙心寺派の聖福寺である。
その聖福寺第百二十三世の職に仙厓義梵が就いたのは11歳の得度剃髪から足掛け30年、ちょうど40歳の時だった。その間、美濃、江戸、関東諸国、奥州路、越後などで行雲流水の托鉢行を続け、多くの辛酸をなめた。若き日の良寛との出会いもあった。
「おごるなよ 月の丸さも ただ一夜」
「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽(涅槃経)。生きる者は皆死に帰る。盛んな者は必ず衰え、出会いには離別がある。苦しみは果てしなく流転し、やむことはない。三界は皆無情にして、諸事、楽しみはなし」
ショパンの「ノクターン(夜想曲)」は好きなクラシックのひとつ。
脚本家・倉本聰は、東日本大震災後4年経った現在の福島の人たち、かつてそこにあった営みや一人ひとりの思い、被災地の本当の姿を同名の舞台で表現しようと試みた。被災者の悲惨だが、けなげな感情が時の経過とともに風化し、置き去りにされていくことに警鐘を鳴らしたいという思いからだ。
そして彼は「現代の人は富み過ぎている。リッチなことばかり考えて、本当の豊かさについて考えていない。終戦後は、たとえ貧しくても家族の寝息に守られていた。豊かさは貧幸の中にもある。今の人はスマホとネットの中で死んでいく」とも言った。BGMの「ノクターン(夜想曲)」が効果的だった。(NHK倉本聰「80歳のメッセージ」)
図書館に吉川英治の「宮本武蔵」(CD、全20巻)があったので借りてきた。マイクロSDにコピーし、部屋の中だけでなく、歩きながらも聴いている。
武蔵、又八、朱美、お甲、沢庵和尚、お通、お杉婆、宝蔵院日観、城太郎、柳生石舟斎、宍戸梅軒、吉岡清十郎、本阿弥光悦、佐々木小次郎、吉野太夫、夢想権之助等、様々な登場人物の声色を朗読の徳川夢声が使い分ける。 両親はすでに亡く、縁を頼む気持ちで親類ただ一人の京で暮らす叔母を訪ねたものの、その叔母夫婦につれなくされる武蔵。
「あくまでこの世は、自分の身ひとつ」は、その時の彼の言葉(「孤行八寒」の章)。武蔵は徹底的に自己のみを信じてきた。家族、縁者、友人等の支えがあっても、結局は「あくまでこの世は、自分の身ひとつ」である。
ちなみに「宮本武蔵」は筆者の人生訓が数多くちりばめられているが、石舟斎の芍薬の切り口と吉野太夫の断絃の場面が特に印象的だ。
「槐(エンジュ)」(月村了衛)。山間にある小さな湖。周辺にはキャンプ場やバンガローが点在している。そこに部活の中学生グループが訪れるが、事件が起きる。振り込め詐欺の収益金を巡る犯罪集団の大虐殺だ。その事件に巻き込まれ、犠牲となった多数の行楽客。半グレ集団の内紛とチャイニーズマフィアとの抗争。教頭先生の自己犠牲。生き残った中学生…。 部活に同行したさえない臨時女性教師の正体は、国際指名手配の日本人テロリスト。彼女がその犯罪集団と戦い、ハッピーエンド。前作の「土漠の花」同様、戦闘の描写が面白い。
「今自分が生きていることが重要と思いなさい」は、戦闘中に彼女が中学生に言った言葉。しかし、この言葉は、人生観そのものに通じる。「即今、当処、自己」、「今、ここ、自分」、そして「一日一生」。
「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK)。今回の主人公は、瀬戸内海の小さな島で暮らす70歳の時計職人。4代目として100年を超える時計店を守りながら、時計修理一筋に生きてきた。時計は、たくさんある精密部品のひとつでも異常があれば狂い出す。他の時計職人から「修理できない」と断られた古い腕時計や柱時計などあらゆる種類や年代の壊れた時計が、最後の望みと共に全国から届く。
現代では百円ショップの時計から数百万円もする高級時計まで、金を出せば欲しい時計が手に入る。しかし、購入時の価格がどうであれ、修理を求められる時計は持ち主にとって、それぞれの歴史や思いが込められている、かけがえのない貴重な物なのだ。
「この時計みたいに生き返ってくださいよ」は、14年前に脳卒中で半身不随となった72歳の夫に対して、妻が言った言葉。修理された腕時計は男性が20歳の時に買ったスイス製の時計だった。
「時計のひとつひとつに誠心誠意向き合う。きちんと向き合って誠意をもって対応する。あたりまえのことをきちんとこなすのがプロフェッショナルじゃないか」
「絶叫」(葉真中顕)。先物取引に失敗し借金を抱えた父親の失踪、家庭崩壊、離婚、ホームレスの囲い込みや生活保護制度を悪用した商売、風俗、連続保険金詐欺殺人など、登場人物は皆「棄民」で不幸な人生を歩いてきた。 「ロストケア」と同じく社会の暗部が全体のストーリーを構成し、気が滅入る。
主人公が生まれたのは1973年。本書はその後の日本で起こった大きな事件・事故や事故死した弟の亡霊の言葉をはさみながら、彼女の生活を描いていく。プロローグ。主人公は死んだのか、それとも…。
「非婚率や単身所帯の増加、そして高齢化。社会構造の変化が、都会を孤独死の街に変貌させる」
「心だって一瞬ごとに変わってしまう。人はいつでも裏切るし、自分だっていつでも自分を裏切る。今日正しいと思うことが、明日悪いと思えるかもしれない」