• <5月24日(金)/3日目>

    (8:30築地市場→9:30浜離宮→10:15新橋駅→10:30東京駅→10:45丸の内ビジネス街→11:00皇居外苑→11:30日比谷公園→12:00霞が関官庁街→13:30旧岩崎邸→13:45湯島天満宮→14:15湯島聖堂→14:45秋葉原→15:15神田古書街→15:30靖国神社 →18:00池袋→19:00新宿→20:00ホテル着)

    ●築地市場は、朝から活気がある。浜離宮、汐留の日テレ、新橋駅へ

    この日は、4日間の中で一番よく歩いた。夜、ホテルに戻り、携帯電話の歩行計でチェックすると、歩数40189歩、歩行距離32131m.の表示。

    まずは、水産物を扱う築地市場からスタート。冷凍マグロなどがコンクリート床にずらっと並べられた場面をよく見かけるセリはすでに終了しており、一般客は9時から場内にある小売りの店舗を見学できる。その前に敷地内にある飲食店で朝食を食べようと思ったが、値段が数千円と高いにも関わらず、すでにどの店も客が並んでいたため、諦めた。濡れた床に、切り落とされたマグロの頭が置かれていた。国内外から集められたさまざまな魚が陳列されていた。店の人が魚をさばいていた。日本の漁業が中国の乱獲などによる水揚げ減や魚価格の高止まりで衰退する中、ここは活気がある。外国人観光客の人気スポットのひとつであることがうなづける。

    汐留駅には日本テレビの社屋があり、宮崎駿のデザインで、ジブリの「ハウルの動く城」に似た鉄製の大きなオブジェが見えた。屋内のロビーには、現在、放映されているドラマなどのポスターがたくさん貼られている。ここも、少し写真を撮って通り過ぎるだけ。

    ●丸の内オフィス街、霞が関官庁街を歩く。皇居外苑の二重橋は風格がある

    新橋駅から東京駅へ移動。10時を過ぎていたので、JR山手線は空いていた(数時間前までは、通勤ラッシュで駅のホームや車内は大混雑だったのだろうが、写真を撮るために時間を合わせるのはやめた)。

    東京駅丸の内側改札口を出て、南北ドーム内天井のレリーフと赤レンガ駅舎の写真を撮る。新入社員の研修時代に通った丸の内ビジネス街を抜け、緑が広がる皇居外苑へ。昔、江戸城と呼ばれたこの一帯は、将軍をトップとする武士のドラマが繰り広げられた。二重橋は風格がある。太平洋戦争敗戦の日、多くの国民がこの場所に膝をつき頭を下げた。

    改修中の桜田門から日比谷公園へと歩く。噴水のある場所では、ビールフアェア、野外音楽堂では、東京都消防庁音楽隊の金曜日無料コンサートが開かれていた。席に座っているのは、暇を持て余しているかに見える年配者ばかり。当然だろう、この時間帯はみんな働いている。大きな鐘が目に入った。自由を愛し平和を想う心を祈願して、終戦直後に米国から日本に贈られ、同公園に設置された「自由の鐘(レプリカ)」だ。

    上野恩賜公園からすぐ近くにある、安さと品揃えを誇るアメ横は、年末の活況がテレビでよく放映される。もともとは、戦後の闇市を起源とし、飴を扱う店が多かったこと、アメリカ兵士が本国の製品を売ることになったことが、その名前の由来らしい。通りは、海産物店、多国籍の飲食店、衣料品店などが所狭しと並ぶ。ガイドブックに記されているのだろう、外国人観光客も多く見られた。

    国会議事堂へ向かうが、方向が分からず、少し遠回りしてしまった。周辺にある市政会館や法務省総合研究所の建物は時代を感じさせる。この一帯は、日本の政治の中心地、霞が関。国会議員やエリート官僚が集結する。旅行バッグに入れてきた真山仁の小説「黙示」も、この一角にある農水省が舞台だ。国会議事堂へは登り坂。なんとか到着し、横の公園でしばし休憩。

    ●歴史を感じさせる湯島聖堂

    地下鉄で次の目的地・湯島へ。三菱財閥岩崎家の本邸だった建物とその庭園を整備した旧岩崎邸は洋館が耐震工事中だったため、中に入らず、すぐそばの湯島天満宮へ。ここは、見るべきものはほとんどない。近場にあるという湯島聖堂へ10分ほど歩いた。

    湯島聖堂は、1690年(元禄3年)、林羅山が孔子廟を造営し、徳川第5代将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。1797年(寛政9年)には、林家の私塾が幕府の官立昌平坂学問所となり、昌平黌(しょうへいこう)と呼ばれた。儒教に対する関心が薄まっているのか、構内に人はほとんどおらず、閑散としているが、歴史を感じさせる。青銅製の孔子像は1975年に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたもので、横の壁には、蒋介石が書いた論語の「有教無類」(教えありて類なし。人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき貴賎の差があるものではない)の額。屋根の装飾瓦も珍しかった。

    ●秋葉原は今、「サブカルチャーの聖地・アキバ」へと変貌
                 

    秋葉原は、湯島聖堂から意外と近かった。東京に住んでいた時、秋葉原は家電や電子部品を売る店が密集する「世界有数の電器街」のイメージがあった。しかし、バブル崩壊後の不景気による節約志向や、郊外に店を構える大型量販店が台頭してきたこともあって1990年代から徐々に衰退。現在は、アニメ・ゲームマニア向けのソフトウェアを取り扱う店が増え、「オタク文化」の大衆化による「サブカルチャーの聖地・アキバ」へと変貌してきている。

    道路ではメイドカフェのユニフォームを着た女の子がチラシを配り、可愛い漫画キャラクターの絵もたくさん見かけた。JR秋葉原駅前の「AKB48 cafe&shop」には若者が多く集まり、6月に行われる「AKB48 総選挙」の立候補者ポスターが貼ってあった。

    ●国を靖(やす)んずる願いを込めた靖国神社。参拝客が深々と頭を下げていた
                 

    靖国神社へ地下鉄で移動する。神田古書店街を歩くために、九段下駅ではなく、ひとつ手前の神保町駅で降りた。少し歩いたが、古書店が見当たらず、道路の向こう側に見えたため、戻って横断歩道を渡った。多くの店が北向きになっている(店の北側が表側)。これは、店頭の書籍が日焼けするのを防ぐためらしい。今や、ネットの時代。骨董としての価値はあっても、余程の専門家や研究者でない限り、古書を紐解くことはないだろう。こうして、時代の変遷とともに街の風景も変わっていく。

    古書街の先は、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀る靖国神社。与党自民党の右傾化が少しずつ表面化する中、閣僚等公職に就く者の参拝問題は、中国や韓国から、内政干渉とも言うべき攻撃材料になっている。

    靖国神社は、幕末以降、明治維新、戊辰戦争など、国家のために一命を奉げた多くの人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えようと、近代日本陸軍の創設者・大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策し、1869年(明治2年)、明治天皇の勅許を受けて建てられた(明治12年に靖国神社と改称)。そして、明治天皇は初めて招魂社に御親拝された折、「我が國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かさ」と詠まれた。

    広い参道の第一鳥居を抜け、大村益次郎銅像を過ぎると、青銅製の第二鳥居、直径1.5mの菊の御紋が取り付けられた神門、中門鳥居があり、その正面が拝殿である。参拝客が深々と頭を下げていた。そこを、右方向に行くと、能楽堂。そして10万点に及ぶ遺品などを収蔵、展示する施設・遊就館があったが、入館が16:00までということで、間に合わなかった。戦争未亡人への敬意と感謝を込めて、1974年に建てられた「母の像」があった。その横には、ビルマ(現ミャンマー)戦線の遺品。亡き父がビルマに従軍していたこともあり、思わず合掌した。

    靖国神社を出て、地下鉄九段下駅に向かっていると、日露戦争時の陸軍大将・大山巌の像。その近くを沢山の女性たちが北の丸公園の方へ歩いている。ここもミーハー気分で行ってみた。武道館で、韓国の人気歌手、チャン・グンソクのコンサートの開演前。女性だらけだった。

    中国人が多いと聞いていた池袋へ。しかし、駅前だけをざっと見て、夜の新宿歌舞伎町に行くことにした。時間が少し早かったせいか、それほどの人出はなかったが、相変わらず、独特の雰囲気があった。(3日目終了)

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