「徒然草」抜粋

「つれづれ」とは、為すこともなく退屈で、侘(わび)しく、寂しくてならない、というような意味ではない。身を閑の状態において、心が外なる物事との交渉を止め、己れの内をのぞきこみ、完全に明確な意識をもって、己れと相対している状態をいう。物に煩わされぬ生活、物にとらわれぬ精神の自由を尚(たっと)ぶこと。「心身永閑」こそ理想の生き方である、と説く。

image

第三十八段

富、身分、名声に意味はない

●名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。・・・まことの人は智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。

【現代語訳】名誉や富に目がくらんで、落ち着いて自分を見つめる時間もなく、一生苦しむなんて愚かなことである。真の賢人は、智恵もなく、徳もなく、功もなく名もない。もともと、賢いとか愚かとか、得とか損とかいう境地にいないのだ。

第四十九段

自分自身の死の時が常に身に迫っていることを心にしっかりととどめる

●はからざるに病を受けて、たちまちにこの世を去らんとする時にこそ、初めて、過ぎぬる方の誤れることは知らるなれ。人はただ、無常の身に迫りぬることを心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきなり。

【現代語訳】たいていの人は、思いもかけず病気にかかり、すぐにもこの世を去らねばならぬ時になって、初めて、これまでの自分の生き方の誤っていたことを悟る。だから、人は己れ自身の死の時が常に身に迫っていることを心にしっかりととどめて、少しの間も忘れてはならぬのである。

第七十四段

この世に常住なるものはなく、万物は変化流転するという大理法を知らねばならない

●いとなむところ何事ぞや。生(しょう)をむさぼり、利を求めて、やむ時なし。身を養いて何事をか待つ。期(ご)するところ、ただ、老いと死とにあり。その来ること速やかにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。常住ならんことを思ひて、変化の理(ことわり)を知らねばなり。

【現代語訳】少しでも長生きしたい、もっと金を儲けたい・・・、とあくせくと生き働いているだけ。名誉と利益に溺れて、老いと死の近いことを顧みもしない。そんなふうにわが身大事に生きて、何を期待するというのか。生きていて何の楽しみがあろう。待ち受けるものは、ただ、老いと死しかない。しかも老いと死の来ることは速やかであって、一刻も止まることはない。この世に常住なるものはなく、万物は変化流転するという大理法を知らねばならない。

第七十五段

身を閑の中に置いて、我ひとり醒めているくらいいいことは他にないではないか

●つれづれわぶる人はいかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。世に従えば、心、他の塵(ちり)に心奪はれてまどひやすく、人に交(まじわ)れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず

【現代語訳】世事に東奔西走する必要もなく、外のことに気を紛らわされることもなく、身を閑の中に置いて、我ひとり醒めているくらいいいことは、他にないではないか。世間の仕組みに従って生きようとすれば、外のつまらぬ事柄に 心をとられて、我が我でなく、いろんな迷いが起きやすい。人とつきあえば、人の気に逆らいやせぬかと心配になって言いたいことがあっても言えぬ。心が絶えず外のことに動かされて、一時として安定している折がない。分別心がむやみと盛んになって、絶えずこれは損か得かと利害得失ばかり考えている。その状態はまさに「惑い」に他ならない。ぼうとしたまま生死の一大事を忘れて生きているのだ。

俗世の縁を断って身を閑の中に置き、俗事には一切関わらず、心を安らかに自由にしておく

●いまだまことの道を知らずとも、縁を離れて身を静かにし、事にあずからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。

【現代語訳】そうでない生き方もある。本当の道がわかるところまで行っていなくても、真の悟りには達していなくても、俗世の縁を断って身を閑の中に置き、俗事には一切関わらず、心を安らかに自由にしておくのこそ、この短い人生をしばらくでも楽しむ生き方と言うべきであろう。

第九十三段

命あって今を生きているこの喜び、これをこそ毎日楽しまないでどうする

●されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。死を恐れざるにあらず、死の近きことを忘るるなり。

【現代語訳】死を憎むのなら、生きてある今を愛せよ。命あって今を生きているこの喜び、これをこそ毎日楽しまないでどうする。死を恐れないのではなくて、死が近いことを忘れ、自分はそうすぐには死なぬと思っている。

第百十二段

我が人生は、すでにケリがつき、これだけのものとわかった。今こそ世間とのもろもろの縁を断ち切るべきだ

●日暮れ、塗(みち)遠し。我が生すでに蹉陀(さだ)(正しくは足偏)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。

【現代語訳】我が人生は、すでにケリがつき、これだけのものとわかった。今こそ世間とのもろもろの縁を断ち切るべきだ。もはや約束をも守るまい。礼儀も考えまい。己れの心ひとつに生きよう。

第百三十七段

若いと言わず、剛健と言わず、思いがけずにやってくるのが死期である。

●花はさかりに、月はくまなきをのみみるものかは。よろずのことも、始め・終わりにこそをかしけれ。・・・若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期(しご)なり。

【現代語訳】満開の花、満月だけが見るに値するとは限らない。盛りの時よりも、始めと終わりにこそ物事は趣がある。男と女の恋もしかり・・・。若いと言わず、剛健と言わず、思いがけずにやってくるのが死期である。

第百五十一段

ある年齢になったら引退して隠居し、元の己れ一人に戻って、天地自然の中で優悠と過ごす

●大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすくあらまほしけれ。世俗に携わりて生涯を暮らすは、下愚の人なり。

【現代語訳】年を取ったら、大体において世間での仕事はすっかりやめて、ゆったりと「閑」にしているのが、傍目に見てもよく、望ましい姿に見える。いつまでも世俗の仕業から足を洗わずに、世の中で立ち働いて生涯を終えるのは、愚か者だけがすることだ。

第百五十五段

人はいずれは死ぬということは知っていても、自分の死がそんなに急にやってくるとは思っていない

●四季はなほ定まれる序あり。死期(しご)は序(ついで)を待たず。人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。

【現代語訳】四季には春夏秋冬という決まった順序がある。変化は速いといっても、その順序に従って行われる。しかし、人間の場合、死はそんな順序などにかまわずやってくる。人はいずれは死ぬということは知っていても、自分の死がそんなに急にやってくるとは思っていないものだ。沖の干潟はまだはるかで潮のくるのはまだまだ先だと思っていると、沖の干潟は変わらないのに、自分の前の磯のあたりにみるみる潮が満ちてきている。

第百八十八段

第一の大事をこれと思い定めて、それ以外のことは全部断念して、この一事にだけ励むがいい。

●されば一生の中、むねとあらまほしからんことの中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。

【現代語訳】一生の内、主として望ましいことの中でも、どれが勝っているかとよくよく思い比べて、第一の大事をこれと思い定めて、それ以外のことは全部断念して、この一事にだけ励むがいい。一生の内だけでなく、一日の内、一時の内でも、たくさんのことが押し寄せる中でも益になることだけをし、その外は全部捨てて、ただ一つの大事へと急ぐべきだ。

第二百三十五段

人の心は絶えず無心にしておかねばならない

●虚空よく物を容(い)る。我らが心に念々のほしきままに来たり浮かぶも、心というもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の内に、若干(そこばく)のことは入り来らざらまし。

【現代語訳】空だからこそ、万物を中に入れることができる。我々の心にさまざまな思いが浮かんだり消えたりするのも、心が元来空であるからだ。人の心は絶えず無心にしておかねばならない。

第二百四十一段

心も身もゆったりと閑(しず)かに

●すべて、所願みな妄想(もうぞう)なり。ただちに万事を放下して道に向かふ時、障(さわ)りなく、所作なくて、心身(しんじん)永く閑(しず)かなり。

【現代語訳】願望などすべて妄想である。願望が生じたら、直ちにすべてのことを放棄して道に向かうべきである。世俗の煩いにまきこまれず、心も身もゆったりと閑(しず)かにしているのが一番の生き方だ。そうすれば、いつまでも心安らかで穏やかでいられる。

雑感

晩秋の空に、ゆっくりと流れる白雲

組織人を辞めたり、身近な者が老いたり亡くなったりすると、それまでの生活が変わる。そして、心にもなんらかの変化が生じる。

ある日、たまたま手にした「徒然草」。14世紀に、兼好法師が書いたとされる随筆だ。老荘思想や禅語と同様、日本の美意識である無常観の中で、「金や物よりも、命、心、時間、そして自由が大切だ」と説いている。また、「身を閑の状態におき、一度きりの人生、いつ死ぬか分からないという意識をもって己れの心と相対する」は、正法眼蔵の「静かに思うべし 一生いくばくにあらず」にも通じる。

霊園に立ち並ぶ墓石の享年を見ていると、幼くして、あるいは若くして亡くなった人も多い。本人だけでなく、親の無念さが思いやられる。また、いくら肉体を鍛えても病に侵され、死に至ることもある。第百三十七段の「若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期(しご)なり」。その通りだ。だからこそ、「生きた長さではなく、その中身を問え」「生きてこその人生」ということだろう。生を楽しみ、老いにたじろがず。

しかし、現役の組織人だったり、若かったりすると、なかなかこのような心境にはなれないのかもしれない。日々の仕事や生活に追われ、時間はまだまだたっぷりある、あれもしたい、これも欲しい、自分が死ぬなんて考えられないという思いがあるからだ。そして、目の前のことにばかり心をとられて月日を過ごすうち、念願のことは一つも果たさないで老年を迎えてしまう。「世の人の心惑わすこと、色欲には如かず」(第八段)「若き時は血気内にあまり、心物に動きて、砕きやすきこと、珠を走らしむに似たり」(第百七十二段)。それだけに、第百五十五段の「沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし」という一文が説得力をもつ。

「たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出でありく時」(橘曙覧(たちばなあけみ)、「独楽吟」)「大空を静かに白き雲は行く 静かに我も生くべくありけり(相馬御風)」

今日、大宰府天満宮近くの竈(かまど)神社に紅葉を見に行った。その後、歩いて10 分ほどの所の露店風呂に入った。湯けむりの上を見上げると、晩秋の青空に白い雲がゆっくりと流れている。「生きて今年の花に逢う」ではないが、来年もまた、この紅葉と白雲を見られるのだろうかと、ふと思った。

「死に支度いたせいたせと桜かな」(小林一茶)