香港 1996.12.15~12.18

バッグを盗まれた。あの親切な女性にはもう二度と会えないのか。言葉の通じない状況のなか、好奇心だけを頼りに歩きに歩いた。


ビクトリアピークから見た市街

 
 今年、猿岩石という二人の若者のユーラシア大陸ヒッチハイク旅行が、同年代の心をとらえ、彼らの日記がベストセラーの上位に入った。190日をかけ、18ケ国・2200キロを旅したが、東京からロンドンまで10万円の金しかテレビ局から渡されていない。それだけに、彼らの体当たりの行動が多くの共感と感動を呼んだ。一方、自分は言葉も分からず、地理も不案内。まして猿岩石のような同行者のいない一人旅。しかし、まあ、何とかなるだろう。
 
行程
 
1日目 
 
 10:45JAL543便福岡空港発→13:25香港啓徳空港着(時差1時間)→14:30ミラマーホテルチェックイン→15:15ホテル発→16:00黄大仙→17:30旺角→油麻地→22:00ホテル着
 
2日目
 
  9:30ペニンシュラホテル→10:00スターフェリー→10:15中環→11:00上環→14:30ビクトリアピーク→16:00スターフェリー→17:30ホテル→18:30福臨門→19:30ネイザンロードを旺角まで歩く→22:00ホテル着
 
3日目
 
 10:00コーズウェイベイ→11:00ビクトリア公園→12:00ヌーンデイガン→14:30映月楼→16:30ホテル着→18:30リージェントホテル→別の道で帰ろうとして道に迷い、九龍駅近くまで歩く→21:00ホテル着
 
4日目
 
  8:00九龍公園→9:30デューティフリーショップ→11:00ホテルチェックアウト→14:20啓徳空港発→18::福岡空港着
 
印象
 
動機

1840年の阿片戦争によってイギリスの植民地となり、一時日本軍の侵攻や反英戦争があったものの、その後、民主と自由を謳歌してきた香港。恐らく20世紀最後のビッグイベントになるだろう香港の中国返還があと半年に迫った。香港基本法に記された「一国二制度、返還後50年間不変」の約束は、本当に守られるのか。630万人の香港の人たちのアイデンティティは、97年7月以降どうなるのか。その香港の歴史の転換点を見ておきたい。それが今回の旅の動機だった。しかし、タイガーバームガーデンやレパルスベイなど、香港で誰もが訪れる観光名所だけを見てみようとは思わなかった。目的地も予定も決めず、ただ行き当たりばったりに歩くことだけを考えていた。

戸惑い
 
 香港は、中国大陸に続く九龍・新界の半島部と、香港島・大嶼山(ランタオ)島などの無数の島からなっている。しかし、政治経済の重要な機能は香港島に集中しており、これに九龍地区を加えた一帯が香港の中心部を形成することになる。
 予約していたホテルは、その九龍地区の中でも最もにぎやかな尖沙咀(チムチャッツァイ)という地域にあった。チェックインを終えた後、空港からホテルまでの送迎だけを頼んだガイドの朱さんから、ホテルのコーヒーショップで30分ほど簡単なヒアリングを受けた後、いよいよ一人旅がスタートした。
 今回は、上海や北京のときと異なり、案内役や同伴者はいなかった。全くの一人。だから、すべて自分で判断しなければならない。最初に戸惑ったのは、彼から紹介された黄大仙という寺院へ行くための地下鉄の切符を買うことだった。コインしか使えない(何故、紙幣が使えないのか)とガイドブックで事前に読んでいたものの、実際どのように買ったらいいのか迷い、自動販売機の前でしばらく他の人の様子を伺って、なんとか買うことができた。先が思いやられる。
 
祈り
 
 黄大仙。ここで人々は何を拝んでいるのだろう。あるいは何を占っているのだろう。境内には線香の煙がたちこめ、鶏肉や果物が供えられている。その裏手にはさまざまな占いの店。占ってもらおうか、と考えたが言葉ができないために諦めた。
 
黄大仙

雑踏
 
 再び地下鉄に乗り、夕方、繁華街の旺角(モンコック)に向かった。地下鉄の駅から路上にあてもなくさまよい出た。すると、いきなり人の洪水。ネイザンロードのメインストリートは、赤、緑、黄色のけばけばしいネオン。貴金属店や高級靴、洋服などのブランドショップが続く。路地裏に入ると、ベルト屋、Tシャツ屋、時計屋、バッグ屋、アクセサリー屋などの専門店が数百メートルにも渡って延々とひしめきあっている。ここは女人街?。狭い路地を人々がもみ合うようにして往来している。香港中の人が全部集まってきているのではないかと思えるほどだ。この状況を見て作家の沢木耕太郎は、「深夜特急・黄金宮殿」の中で「もしかすると香港は毎日が祭りなのかもしれない」と書いた。
 
翡翠(ひすい)
 
 日本にも同じようなレイアウトの店はあるが、香港の貴金属店の数の多さには圧倒される。ショーウィンドーをのぞきこんだ。翡翠がこんなに美しいとは気がつかなかった。腕輪、指輪、ネックレス、イヤリング・・・。その緑の輝きに息を飲む。いいなと思った腕輪の値札を見ると数万香港ドル(1香港ドル=15円)。当然かもしれない。ここにも中国人が、現金よりもゴールドや宝石を信用してきたという歴史的事実がある。
 

 
格調
 
 2日目は香港島に行こうと考えた。朝、ネイザンロードをしばらく南に歩いていると、かすかに潮の香りを感じた。海が近いらしい。少し行くと、右手にその界隈に珍しい重厚な造りの建物が見えてきた。正面に回って眺めると、それはどうやらホテルらしく、建物の壁にさりげなく名前が書いてある。<THE PENINSULA>。これがあの有名なペニンシュラホテルなのか、と嬉しくなり、中に入った。格調高さと高級感を感じさせるこのホテルが、イギリス王室の定宿というばかりでなく、世界の著名人を顧客として持っていることは確かにうなづける。

ペニンシュラホテル

短い航海
 
 ペニンシュラホテルの前を通って少し行くと、埠頭が見えてくる。そこに九龍と香港島を結ぶフェリーが発着するターミナルがある。スターフェリーターミナル、中国語にすると天星碼頭。フェリーは頻繁に発着している。客は5分と待たずにフェリーに乗ることができる。香港島までの所要時間は7,8分。海上の微風は心地よく、対岸の高層建築群も美しい。これで2ドル(30円)なら安い。しかし、この平和なビクトリア湾を軍港にすることが中国の香港返還の最終目的のひとつであるという話がもし本当であれば、やはり心は沈む。
 
ビクトリア湾
摩天楼
 
 フェリーが着いたところがセントラル、中環である。東京で言えば、丸の内と西新宿と渋谷それに上野をひとつにしたところというべきか。いろんな街が集まっている。林立する高層ビルを目の当たりにすると、欧米や日本を圧倒する先進的な都市ではないかと感じる。「ランドマークタワー」や「上海灘」といったブランドショップが観光客で賑わっている。アメリカや日本のショッピングモールと造りは変わらない。その一角にある「ジョイス」という高級店の入り口に警備員が立っていた。皇后像広場から香港上海銀行と中国銀行を見上げる。いずれも風水に基づいて設計された、とNHKのテレビで見たことがある。イギリスと中国がお互いを牽制しているかのようだ。世界の金融貿易センター・香港を実感する。
 
感傷と氾濫
 
 旅先で印象深いところに立つとき、もう2度とこの場所に来ないかもしれない、この感動を他の人にも味わさせてあげたい、という思いがいつも心に浮かび感傷的になる(美味しいものを食べたときもそうだ)。上海の外灘(バンド)、杭州の西湖、北京の紫禁城や万里の長城、そして九龍島の夜景。いずれも素晴らしいところだったが、一方で、できるだけ庶民の息遣いの聞こえる裏通りも歩きたかった。クイーンズロードを西にぶらぶら歩き始めた。商店の密集地が続いている。ガイドブックを開くと、この一帯はハリウッドロード。その一角から中に入った通りがキャットストリートというらしい。人気テレビ番組「料理の鉄人」に登場したヨンキーレストランがあった。文武廟という道教寺院があった。肉屋があり、骨董品店があった。薬種問屋があると思うと、乾物屋が集まっている通りもある。香港には、恐らくあらゆる通りに、このようないろんな店があり、商品があって、人がいるのだろう。そのとてつもない氾濫が、日本では失われたかに見える生きるためのエネルギーを発散しているのだ。
乾物屋 肉屋
奇跡
 
 今回の香港旅行のハイライトともいうべき事件が起こった。貴重品(パスポートと現金を入れたセーフティボックスのキー、ホテルの部屋のキー、財布、そしてカメラ)を入れていたセカンドバッグを置き引きされたのだ。
 
 それは一瞬のできごとだった。午後、ビクトリアパークからスターフェリー乗り場近くに降りてきたときのことである。疲れたためにベンチに座り、バッグを横に置いて、ぼんやりと一服していた。突然、地元のОLらしい女性が声をかけてきた。「Execuse Me」。彼女が右手の方を指差している。反射的にベンチの上を見た。バッグがない。すぐに、盗まれたと分かった。思わず、彼女が指差した方向に駆け出した。路上は人の往来が多い。誰が盗んだのか全く分からない。焦った。立ち止まって周囲を見まわし、また走った。それを何度か繰り返す。彼女がついて来てくれた。「あっちのほうですか?」。言葉が通じないため、思わず自分も指をさす。彼女がうなづく。再び、走り出す。彼女も走る。走っては、立ち止り、周りを見まわす。彼女も道の向こうで周囲を見まわしている。それを見て、一瞬諦めた。見失ったのかも知れない。
 
 その時、彼女がまた指をさした。中央郵便局の向かい側、香港観光協会が入っているビルの先の階段の上だ。一人の若い男が目に入った。逃げるべき方向を探しているようだ。男に向かって走った。近くまで行き、ついて来てくれた彼女に確認を求めた。彼女が頷く。彼はビニールの袋を下げていた。中をのぞくと、茶色のバッグが見える。間違いない。自分のバッグだ。男の腕を掴み、袋からバッグを取り出す。往来の人々は何が起こったのか、と立ち止まり、こちらを遠巻きに見ている。男は掴まれた手を引き離そうと抵抗する。男が声を出した。「対不起(トイブチー、ごめんなさい)」。広東語ではなく、北京語だ。地元の人間ではないらしい。男は哀願しながら、掴まれた手を振りほどこうと必死に試みる。この辺りでいい、と掴まえていた手を放した。男は、その反動で階段を転げ落ち、走って逃げて行った。

 彼女は、そばに立っていた。なんと言ってお礼を言ったらいいのか分からない。彼女は、多分、香港人だろう。「サンキュー、サンキュー・ソーマッチ」。興奮して、言葉が出てこない。同じ言葉を繰り返すだけだ。握手を求め、感謝するだけの自分に彼女は笑っている。言葉が通じない。もし彼女がいなかったら、今回の香港旅行はとんでもないものになっていた。パスポートの再発行のために、さらに数日滞在せざるを得なかったのだ。自分の気持ちを伝えることができないまま、あわただしく別れてしまった。大変、残念だ。自分の気持ちを伝えらることができれば・・・。今、とても後悔している。 

中国語は、こちら
 
多国籍の人々
 
 街で見かける人たちの国籍はさまざまだ。多くの外国人観光客とすれ違う。欧米だけでなく、台湾や韓国からの旅行者もいる。日本人観光客かと近づくと、広東語らしき言葉が聞こえてくる。昼間のセントラルは、スーツに身を固めた白人のビジネスマン。夜のネイザンロードには、ナイトクラブに勤めているのか、美しいインド人の女性たちがきらびやかな衣装で歩き、辺りは一瞬浮き立つような華やかさに変わる。重慶大厦があるすこし怪しい雑貨街には色黒のパキスタン人かインド人。共稼ぎの香港人のためにメイドはフィリピン人が多いらしい。香港在住の日本人は25000人。この香港に来年7月、英語ができる6500人の中国人精鋭部隊が駐留する、と聞いた。
 
夜総会の看板


メディア
 
 雑誌や新聞は香港人にとって重要な情報源である。インチキ記事も平気で掲載されるらしい。それだけ香港には、政治抜きで物事にこだわらない自由があった。路上には、何種類もの分厚い新聞が並べられ。出勤時にはビジネスマンだけでなくОLたちも買っていく。日本の女性雑誌もある。しかし、その香港の新聞や雑誌がいま、言論の自由を失いつつあると聞く。テレビも大きな規制を受け始めているらしい。余りにも好き勝手な報道が、北京の機嫌を損ねているからだ。海外のメディアもその規制下に入った。香港に住むチャイナウォッチャーたちは、これからどのような姿勢で中国を報じるのか。
本屋
 
テレビ
 
 歩き疲れ、ホテルに戻る。風呂に入り、たばこを一服。そしてテレビのスイッチを入れる。ドラマ、ニュース、歌番組・・・。日本のテレビと比べ(日本のテレビ業界は、最近節度がなく、安易なバラエティ番組や再放送などでお茶を濁している。テレビマンの質が下がった)、コマーシャルが少し少ない気がした。広東語、北京語、英語。三つの言葉が流れる。香港、北京、そして台湾のテレビ局制作のものだ。画面に字幕が出る。同じ中国人でありながら、言葉が違う。
 
将来
 
 たまたま北京の中央電視台が、初代の香港特別行政区長官に選出された薫建華の特別番組を放送していた。上海生まれで来年60歳。世界的な海運業の衰退に伴う経営危機を見事な手腕で乗りきった海運王である。政治的には未知数なだけに、将来、中国と香港の利益が対立したとき、彼がどちらにつくか注目される。
 
貧富
 
 この香港にも、持てるものと持たざるものとの対照が露骨なほどはっきりしていた。繁華街には、日本でも見かけなくなった乞食が目立った。その中には身体の不自由な者もいた(香港通に言わせると、稼ぐために意図的に身体を痛めた者もいるらしい)。一方、ビクトリア湾に面した高級ホテル、リージェント。玄関口には数台のロールスロイスが停まり、ロビーには豪華な調度品が並んでいる。その奥のレストランバーに入ると、目の前にまさに百万ドルの夜景が広がった。そのテーブルは欧米人などでほとんど埋まっている(サービスも心地よい。一杯80ドルのジンフィズを飲んだ)。
 
言葉
 
 油麻地(ユマティ)で道に迷い、警ら中の警官に初めて使った「Execuse me」。しかし学校で何年も習ったはずの英語が、頭の中で単語を確認しなければ、道を尋ねることすらできない始末だ。少し込み入った話になるともうお手上げ。スターフェリー乗り場近くで置き引きに遭った時、助けてくれた女性に英語で感謝の思いを伝えられなかったことが悔やまれる。チムチャッツイのレストランで食事中、隣のテーブルに座っていた数人の男性たちの会話に耳を傾ける。北京語と分かって、なんとなくほっとする。日本語が恋しくなれば、デューティフリーショップに行けばいい。日本語があふれている。
 空港までの帰りのガイドはTさんだった。彼は20代前半か。日本語は当然ながら、英語と北京語もできる。地元の広東語を入れると四つの言葉をしゃべることができる。彼の父親は国共内戦のとき上海から逃れてきた。香港では、小学生のときから英語教育が始まる。イギリス統治の国であり、公用語でもあるから当然だ。その公用語が、これからは北京語に変わる。
手のオブジェ
 
50年不変
 
 中国は、いまや世界に大きな影響力を与える国になりつつある。しかし中国の将来を悲観視する人も多い。学問、思想、人権を公安が抑える、経済開放の一方で環境が破壊される、エネルギーが不足する、半分近くの国有企業は赤字で失業者が増大し、治安が悪化する。貧富の差が拡大する、法律やインフラの整備に相当の時間がかかる、インフレが続く、人口増大で食糧危機が起こる、民主化要求、軍事力増強、民族問題・・・。
The trip to China
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