Tokyo2 遊就館と都内日本庭園

遊就館

■福島の帰りに、東京で一泊した。前回、時間がなくて見られなかった靖国神社の遊就館と都内の日本庭園へ行くためだ。いわき駅から午前10時過ぎの特急「スーパーひたち」に乗り、JR常磐線で約2時間、上野駅には12時半過ぎに到着した。ちなみに上野駅は、今年で開業(明治16年)130周年。

まずは上野公園へ。ここは東京国立博物館、国立西洋美術館など10近い博物館や美術館が集中している。各館の展示の中で、国立科学博物館の「深海 -挑戦の歩みと驚異の生きものたち-展」と東京都美術館の「ルーヴル美術館展」の特別展に興味を持ったが、時間が足りないかもしれないと思って、ふたつの館内には入ったものの観覧はしなかった。

猛暑の中、公園内を通り、寛永寺や輪王子などを外からぶらっと見て、地下鉄で九段北の靖国神社境内にある遊就館へ。神社横には、特注の右翼のトラックが4台停まっていた。前回は靖国神社に着いたのが4時頃、閉館が4時半のため諦めた。

遊就館は日本最大の軍事博物館と言われる。ここへ行こうと思い立ったのは、以前、テレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」で、故評論家の三宅久之氏が遊就館を訪れ、展示されていた花嫁人形を示しながら、散華した若者を思い(三宅氏と同世代)、涙しているのを見たことがきっかけだった。

時間は2時20分。中に入ると太平洋戦争時代の「ゼロ戦」がまず目に入った。先日読んだ百田尚樹の小説「永遠の0」を思い出した。「ゼロ戦」は開戦初期は最強の戦闘機だった。入館料800円のチケットを買い、エスカレーターで二階へ上ると、遊就館という名称が拠った「荀子」勧学篇の「君子居必択郷遊必就士」(君子は居るに必ず郷を択び遊ぶに必ず士に就く─高潔な人物に就いて交わり学ぶ)という額が飾られていたが、この博物館の名称の由来にどうつながるのかは、いまひとつ理解できていない。

少し進むと、日清日露の大戦から大東亜戦争に至るまでの我が国近代史の戦争を当時の映像で再現した50分のドキュメント映画が上映されていた。映画では、開戦はアメリカが仕組んだ、東条英機は戦争に反対した、唯一国際法の専門家であるインドのパール判事だけが7人のA級戦犯とされた人たち全員を正当化し無罪と主張したなど、東京裁判は歪められた、間違った裁判だった、という靖国史観に立っていた。

順路に従ってさらに進むと、「国のために命を捧げた」神武天皇以後太平洋戦争までの英霊たちの遺品や遺影などが数多く展示されていた。特に印象に残ったのは芸術品ともいうべき日本刀の美しさ、若くして死んでいった6000人とも言われる軍人らの写真(平和に慣れ、死に対する覚悟のない現代人に比べ、彼らの胸中はいかほどだったのだろう)、そして独身のまま亡くなった若き男性のために奉納された花嫁人形・・・。時計を見ると閉館10分前。歩みを少し早めて館を出た。

■二日目は都内の日本庭園を回った。ホテルに置いてあった都内観光のパンフレットを見て、六義園(りくぎえん)、旧古川邸、旧岩崎邸、そして清澄(きよすみ)庭園の4か所をピックアップした。帰りの飛行機の時間は羽田発4時。効率よく回らなければならない。

平日ということもあって、どこも入園者は少なく静かだった。六義園と清澄庭園は池泉式の大名庭園で広く、池の周りをゆっくりと散策するのによいが、その分、樹木や池の手入れは大変だろう。旧古川邸、旧岩崎邸はかつての財閥経営者が金を惜しまず所有した二階建の洋館と庭(旧岩崎邸は、和室とビリヤード室もある)で構成されている。旧古川邸は屋内に入ることはできなかった。日本庭園は近代日本庭園の先駆者として数多くの庭園を手掛けた京都の小川治兵衛(植治)により作庭され、洋風の薔薇園もあった。旧岩崎邸は屋内の写真撮影禁止のところ、手の込んだ調度品、飾り柱、階段、天井、暖炉、金唐革紙の壁紙などを隠し撮り。ただ、二階に飾られていた絵付けの金色の合わせはまぐりは、警備員が近くにいたため断念した。紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられる清澄公園は、池の岩の上で鳥が羽を休め、ピンクの百日紅がきれいだった。ここも、のんびりとした心境になれる。

■前回の東京は四日間で91Kmをあわただしく歩いた。今回は日本の歴史を振り返りながらゆっくりと歩いた。他にも行きたいところはたくさんある。比叡山延暦寺、中山道馬籠、北陸・・・。

上野駅に到着した「スーパーひたち」

東京都美術館入口付近に置かれた大きな球

上野寛永寺

靖国神社近くに右翼の大型トラック

最強の戦闘機だった「ゼロ戦」

パール判事は、東京裁判で7人のA級戦犯の無罪を主張した

六義園

六義園

六義園

旧古川邸

旧古川邸

旧古川邸

旧岩崎邸

旧岩崎邸(金唐革紙の壁紙)

旧岩崎邸

清澄庭園

清澄庭園

清澄庭園