長崎は歴史の街である。ポルトガル船が初めて長崎に入港したのは1571年(元亀元年)。これより町が造成され、多くのキリスト教信者が移り住んだ。しかし豊臣秀吉の「伴天連追放令」発布により、彼らに対する長い迫害が始まった。江戸時代まで続いたキリスト教禁教令。出島に集められていたポルトガル人が追放されると、次は平戸からオランダ商館が出島に移され、オランダは中国とともに対日貿易を独占した。1859年(安政6年)の開国後、函館、横浜、長崎、新潟、神戸の5港が開港し、長崎にも外国人専用の居留地が造成された。居留地に住んだのは、イギリス人、アメリカ人、ロシア人などで、領事館、貿易商社、教会、洋風住宅などが建てられた。1865年(慶應元年)に坂本龍馬が亀山社中を伊良林町に開く。そして、1945年(昭和20年)8月9日11時2分、あの原子爆弾が投下された。

長崎は観光の街である。グラバー園、大浦天主堂、平和公園、孔子廟、新地中華街など多くの史跡や異国情緒を目的に、国内外の人々が訪れ、国際色を感じさせる。500円の路面電車一日乗車券を利用すれば、目的地への移動に便利だ。長崎港松が枝国際ターミナルには大型豪華客船が停泊していた。「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして認定された端島(はしま)炭鉱跡(別名軍艦島)は新たな観光スポットになった。大沢在昌の小説「海と月の迷路」は、ここ軍艦島が舞台である。

そして、長崎は造船と坂の街である。三菱重工長崎造船所やその関連企業が市を潤し、そこに勤める人も多い。また小高い山に囲まれるように、たくさんの住宅が山裾に沿って上へ上へと立ち並ぶ。平地が少なく、階段や坂ばかり。自転車をほとんど見かけないことに納得した。

初めての長崎は中学時代の修学旅行だったが記憶はほとんどない。20年ほど前にも仕事で訪れたが、新地中華街の江山楼でチャンポンを食べただけ。今回はいろいろと回った。駅舎は新装され、鉄道や高速バスが整備され、ホテルも増えて観光はより便利になって来た。しかし、異国情緒にひたるだけでなく、あの被爆を永遠に忘れてはならないだろう。

一日目

(福岡・天神バスターミナル→長崎駅バスターミナル)→日本二十六聖人殉教地・記念館→長崎原爆資料館・国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館→原子爆弾落下中心地碑→平和公園→平和記念像→浦上天主堂→二の鳥居(一本柱鳥居)・山王神社→長崎駅(くんち龍踊)→ホテル→長崎新地中華街・思案橋→ホテル


日本二十六聖人殉教地

福岡・天神から九州縦貫道、長崎自動車道を通るノンストップバスで長崎駅へ。所要時間約2時間。ホテルのチェックインまで時間があったので、駅前バスターミナルのコインロッカーに荷物を預け、長崎駅の観光案内所でもらった観光マップを手に早速観光を始めた。
まずは近くの日本二十六聖人殉教地へ。ここは、豊臣秀吉のキリスト教禁止令により26人のカトリック信者が捕えられ、1597年(慶長元年)に処刑された場所。二十六聖人の等身大ブロンズ像が目に入った。隣接する日本二十六聖人記念館には、二十六聖人の遺物やキリシタン弾圧の歴史が展示されている。

長崎原爆資料館・長崎原爆死没者追悼平和祈念館

15分ほど歩いて長崎原爆資料館へ。被爆直後の長崎の街の惨状、原爆の傷跡、色とりどりの折り鶴が胸を打つ。壁面に「即刻、都市を退避せよ、日本国民に告ぐ!」と日本語で書かれた一枚の紙が展示してあった。原子爆弾の投下を予告するビラだった。文中に「米国はこの原子爆弾が多く使用されないうちに、諸君がこの戦争を止めるよう天皇陛下に請願されることを望むものである」と書かれている。ネットで見ると、1945年8月7日から9日にかけて東京で撒かれたビラだった。修学旅行生だろうか、小学生らが館内で熱心にメモを取っていた。あの子供たちは、この見学で、すでに70年がたった「長崎の被爆」をどれだけ実感したのだろう。

原子爆弾落下中心地碑

長崎原爆資料館からすぐ近くの原爆落下中心地記念碑に向かう途中、みどり橋の下に小川があった。ここにも水を求めた被爆者の死体があったのだろう。平和公園の噴水の前には、「のどが乾(かわ)いてたまりませんでした。水には油のようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとう油の浮いたまま飲みました」(あの日のある少女の手記より)の碑。小学生らが花束が添えられた記念碑に向かって黙礼していた。彼らと同じ子供が当時、爆風にやられ、水を求めていた。

平和公園

平和公園は、原爆の悲惨さを訴え、世界平和と文化交流を図るために、1951年(昭和26年)に造られた公園。高さ9.7mの壮大な平和記念像は、長崎出身の彫刻家である北村西望によるもので、天を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を表現している。像に向かって、小学生がみんなで手を合わせている。また事前に学校で練習してきたのだろう、この原爆に関した歌を整列して歌っている。像の両サイドには、平和を祈る金と銀の大きな折り鶴。外国人も多く、ガイドブックとカメラを手にしていた。この像を見て、彼らはどう感じたのか。

浦上天主堂

浦上天主堂へ。原爆投下により爆心地から半径約1Kmにも及ぶエリアが全壊。1914年(大正3年)に完成した大聖堂は東洋一を誇る教会だったが、爆心地から500mほどの距離にあったために原爆投下で全壊。昭和34年に再建され、昭和56年のローマ法王ヨハネ・パウロ2世訪日の際に煉瓦タイルの外壁に改装された。ここでも、年配のボランティアが小学生らに当時の状況を説明していた。天主堂の内部は静粛で、ステンドグラスが綺麗だった。

二の鳥居(一本柱鳥居)・山王神社

マップにあった山王神社大楠と二の鳥居を見るため、長崎駅方面へ戻る。原爆の被害に見舞われ、右側だけが奇跡的に残った一本柱の鳥居。境内の大楠も爆風や熱風を受けたものの、二か月後には芽吹いた。そうした生命力にあやかろうと多くの参拝客が訪れるそうだ。ちなみに、その先は小山があったため、爆風はさえぎられた。

長崎駅(くんち龍踊)

夕方になり、コインロッカーに預けていた荷物を取りに長崎駅に行くと、駅広場に人がたくさん集まっている。長崎くんちの龍踊(じゃおどり)がまもなく始まるという。長崎くんちは、長崎に秋の訪れを告げる諏訪神社の秋の大祭。本来は10月7日から9日にかけて諏訪神社、町内で御朱印船、川船、鯨の潮吹きなどの演し物が披露されるが、中日の8日、7年に一度の龍踊を見ることができたのはラッキーだった。まず赤い提灯とともに子供たちの龍が入り、チャイナドレスを来た若い女性が長いラッパのようなものを吹き、鉦(かね)をたたいてはやし立てる。そして、複数の黒服の男たちに棒で支えられた長くて白い龍が上下左右に動きながら、広場を練り歩く。広場を出ようとすると、周囲の観客たちから「もってこーい(戻ってこい)、もってこーい」の掛け声。それを繰り返す。その後、広場を出て街を練り歩き、各家々の玄関先や店の前の路上で短い踊りやお囃子を演じる「庭先周り」が続いた。

ホテル

コインロッカーから預けていた荷物を出し、ホテルに着いた。ここでもラッキーなことがあった。事前にネットでホテルを探したが、他県からの長崎くんち見学者、外国人観光客、修学旅行生らの宿泊のためか、どこもほぼ満室。わずか3室だけ残っていた新地中華街近くのホテル「マリンワールド」を部屋の内容が不明のまま、朝食付き7000円で予約した。普通のビジネスホテルの狭い部屋を予想していたが、部屋に入ると家族客向けなのだろう、20畳ほどあって一人にはとても広い。ダブルベッドのほか、シングルのエクストラベッド。壁際におかれたテレビとの3mほどの間には、長いソファー。しかも、13階の窓からは、長崎市内の夜景が見える。

長崎新地中華街・思案橋

少し部屋で休憩して、夕食をとるため再度出かけた。新地の中華街には、昔入った江山楼や四海楼、蘇州林などの有名店のほか、多くの中華料理店や土産店が並ぶ。定番のチャンポンを食べ、思案橋や浜町近辺をぶらっと歩いて、近くのダイエーで缶ビールを買い、ホテルに戻った。

二日目

ホテル→長崎新地中華街→若宮稲荷神社→亀山社中資料展示場→風頭公園・坂本龍馬像→龍馬のぶーつ像→長崎市亀山社中記念館→諏訪神社→長崎歴史文化博物館→眼鏡橋→崇福寺→大浦天主堂→グラバー園→孔子廟→オランダ坂→東山手甲十三番館→旧長崎英国領事館→旧香港上海銀行長崎支店記念館→出島→出島ワーフ→長崎港松が枝国際ターミナル


若宮稲荷神社

二日目。一日を効率よく回ろうと考え、まずは標高152mの風頭(かざがしら)公園を目指した。路面電車の新大工町下車。山手に向かって歩き始めた。中島川を渡ると、ゆっくりとした坂が始まる。10分ほど歩くと、若宮稲荷神社の鳥居が見えてきた。さらに上ると1673年(延宝元年)に創建された神社の境内。市街地を見下ろす境内の左端には、これから上る風頭公園にある坂本龍馬像の原型である約1mの像が立っている。神社の建物の中では、来週末に行われる祭りの準備が進められており、地元の人が「中に入っていいですよ」と言ってくれたので靴を脱いで入った。子供神輿が中央にあり、窓の上の壁面には女狐に扮した子供が約10mの青竹で曲芸を披露する「竹ン芸」の写真が飾られていた。

亀山社中資料展示場・風頭公園展望台

神社のすぐ横は亀山社中資料展示場(入場無料)。坂本龍馬は、日本最初の商社といわれる亀山社中を結成し、ここ亀山に活動拠点を置いた。古民家を改造した展示場には、龍馬愛用の刀やピストル(いずれもレプリカ)、幕末の志士たちの資料などが所狭しと並んでいる。武田鉄矢など有名人のサイン色紙もたくさんあった。ボランティアの方に勧められ、幕末から明治にかけて活動した写真師・上野彦馬が撮った龍馬の写真をバックに座り、刀を両手に抜いて自分の写真を撮ってもらった。そして、めざす風頭公園展望台へ。100段以上あるかと思える階段は少しきつい。しかし、展望台に着くと、眼下に長崎港と長崎市内を眺望できる。展望台には1989年建立の4.8mの龍馬のブロンズ立像。その近くには、司馬遼太郎の小説「竜馬が行く」の文学碑。文学碑には、『「長崎はわしの希望じゃ」と、陸奥陽之助にいった。「やがては日本回天の足場になる」ともいった』の一説が刻まれている。

長崎市亀山社中記念館

展望台を後にさっき来た道を下り、亀山社中資料展示場、龍馬のブーツ像を経て、亀山社中跡地にある長崎市亀山社中記念館へ。館内には、亀山社中資料展示場同様、龍馬の愛用品(ピストル、ブーツ、月琴、門服)、手紙、亀山焼などが展示してある。母屋ほぼ中央上部の中二階は4畳ほどの隠し部屋。日曜日ということもあって、観光客で結構混んでいた。

諏訪神社

マップを見るとそう遠くない。次は諏訪神社に行くことにした。しかし、ここも神社本殿まで結構、階段がある。一昨日まで行われていた秋の大祭・長崎くんちの踊り場桟敷の足場を解体していた。当日は、かなり見物客が集まったことが推測される。境内は静かで、本殿はどっしりとしている。

長崎歴史文化博物館・眼鏡橋

諏訪神社から、長崎の歴史、文化、海外交流の資料を展示する長崎歴史文化博物館、そして眼鏡橋へ。長崎歴史文化博物館は石垣に白壁作りの風格ある堂々とした外観、屋根瓦の端正な表情が印象的。土産物店では、長崎刺繍、ステンドグラス、銀細工などの伝統工芸品にバスツアーの欧米系外国人が群がっていた。長崎の人気観光地のひとつになっている中島川に架かる眼鏡橋は、1634年に造られた日本初の石造二連アーチ橋。川面に映った橋が丸い眼鏡に見えることから名づけられ、架橋当時の石工たちの技術力に感心する。

崇福寺

崇福寺は、1629年(寛永6年)に建立された黄檗宗の寺院で、中国様式の寺院としては日本最古。印象的な赤い楼門を抜ける。明末期から清初期の建築様式を用いた大雄宝殿と第一峰門は国宝に、三門や護法堂は国の重要文化財に指定されている。ここはあまり人気がないのか、自分が訪れた時、観光客はまばらだった。

大浦天主堂

路面電車で大浦天主堂下車。天主堂に向かう坂は観光客で賑わっている。途中、カステラや記念品などを売る通り沿いの店のひとつに、ラオックスがあった。日本製炊飯器などが積まれている。免税目当ての中国人を当てにしているのだろう。大浦天主堂は1864年(元治元年)、日本人が開国初期に初めて建て、現存する日本最古の木造教会。1597年に殉教した26聖人に捧げられた教会である。天主堂正面に安置された日本之聖母像を見て教会内に入ると、祭壇に十字架のキリスト像、竹を漆喰で固めた天井、日本二十六人聖人殉教図、ステンドグラスなどがあり、荘厳な印象を受ける。スピーカーから説明が流れていた。『慶応元年の昼下がり。この大浦天主堂に浦上地区の農民が数名訪れました。プチジャン神父に「私の胸、あなたと同じ」と打ち明け、「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのです。禁教令から約250年、7世代に渡る信仰の伝承が密かに続いていたことが明らかになった瞬間でした。この信徒発見は宗教史の中の奇跡と言われました』。信教心がない自分(あえて言えば仏教)には、新鮮なエピソードだった。

グラバー園

大浦天主堂裏手に隣接するグラバー園へ。中学の修学旅行以来だ。観光客の為にエスカレータが設置してあった。グラバー園は、長崎開校と同時に来日し、幕末、激動の長崎で坂本龍馬ら志士たちを陰で支え、日本の近代科学技術の導入にも貢献したトーマス・グラバーが1863年に建設した住居の跡地。クローバー形の建物が特徴で、国の重要文化財になっている。園内には旧リンガー邸や旧オルト住宅など長崎市内に点在していた洋風建築物も移設され、公開されている。園内から長崎港を見下ろすと、大型客船が停泊し、三菱重工長崎造船所のドッグも見える。それにしても、大浦天主堂同様、一人600円の入園料を重ねると一日いくらの収入になるのかと下世話な思いも起きた。

孔子廟

時間が押していたので、赤と黄色の極彩色の孔子廟は外から正門と屋根に飾られた鳳凰を写真を撮っただけで、次のオランダ坂へ向かった。孔子廟は1893年(明治26年)、在長崎華僑と中国・清政府が協力して建てた本格的な廟で、中国歴史博物館(北京の故宮博物館には二度行った)もあるとのこと。佐賀・多久市の孔子廟には行ったことがあるが、次回、機会があれば入ってみよう。

オランダ坂・東山手甲十三番館

孔子廟から少し歩くと、石畳のオランダ坂。ここも観光スポット。多くの人が「オランダ坂」と書かれた石碑の横に立って、写真を撮っている。居留地時代に地元の人は、東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼び、外国人が多く通ったことから、この坂をオランダ坂と呼んだとか。活水女学院に向かうオランダ坂の脇に、東山手甲十三番館があった。この青い木造二階建ての建物は、明治27年に賃貸住宅として建てられ、貿易商会の従業員や銀行の支店長らが住んでいたという。昭和初期から中期にかけてフランス代理領事が住み、領事館の役割も担っていた。

出島和蘭商館跡

長崎の代表的な観光地の残りは出島跡地。出島は鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口で、17~19世紀にかけて海外貿易の拠点だった。現在、国指定の「出島和蘭商館跡」として、10棟の建物を公開している。その近くの出島ワーフは、博多ベイサイドプレイスと同じく、海に面した、こじゃれた店で外国人がビールなどを飲んでいた。

長崎港松が枝国際ターミナル

そろそろ、長崎観光も終わりかと考えていた時、グラバー園から見た豪華客船の停泊を思い出した。停泊地の長崎港松が枝国際ターミナルは出島ワーフから近い。せっかくだからと、行ってみた。船体には「Royal Caribber International」と書かれている。とても大きい。圧倒される。船の名前をネットで調べてみた。「マリナー オブ ザ シーズ」(総トン数138,279トン 全長311m 全幅48m 乗客定員3,114名)。この船に乗る人は、どんな人だろう。博多港にも寄港しているようだ。