福島の被災地と観光地を歩く

《Report(雑感)》

太平洋が青く広がる、福島県いわき市小名浜の薄磯海岸。砂浜には白い波がゆっくりと打ち寄せる。静かで穏やかな光景だ。しかし東日本大震災による津波で、この海岸にも被災者の死体が流されてきた。

今回訪れたいわき市は、上野駅から特急「スーパーひたち」で二時間。太平洋に沿った浜通り(福島県は太平洋側から縦に浜通り、中通り、会津の三地域に分けられる)の南東に位置し、県内最大の人口33万人を抱える。そのいわき市に18年間住み、現在、精肉会社を営むFに誘われて、二日間の福島小旅行に行ってきた。

■「あの時は、腰が抜けました」

2011年3月、宮城県沖で発生したマグニチュード9.1の歴史的大地震は、巨大津波と原発事故による放射能汚染をもたらし、東日本一帯に大きな爪痕を残した。この未曽有の震災による死者・行方不明者は1万8,500人(死者の90%が津波による水死)、建築物の全壊・半壊は合わせて約40万戸。そして、復興だけでなく放射能汚染対策も、今なお遅々として進んでいない。

現在、地元ライオンズクラブ主催の復興イベントでボランティアとしても活動しているFに、震災後少しして電話をかけた時、彼は「本当に腰が抜けました」と答えた。

「ほら、右手前方にパチンコ屋の看板が見えるでしょう。海岸から500mほどの所ですが、あそこまで津波が来ました」。彼の会社から小名浜港へ向かう車の運転席から、Fが当時の状況をいろいろと説明してくれる。

小名浜港にある観光物産館「いわき・ら・ら・ミュー」に車を停める。日曜日ということもあり、駐車場は満車。館内の水産物販売コーナーや飲食店に客が集まる。ここは今、2年前の地震や津波がまるで嘘だったかのように、ありふれた平和な光景だ。

帰福後、YOUTUBEの映像で地震直後のいわき市の津波到来や被害の様子を改めて見た。衝撃的だ。ゆっくりとした潮流が陸地に向かって徐々に勢いを増し、漁船が反覆したり埠頭に乗り上げる。小型船、乗用車が流されていく。大型トラックや重機が逃げ場を求めて右往左往する。一週間後の映像では、「ら・ら・ミュー」館内の商品や設備は流されたのか、何も映っていない。工場の建物は倒壊・浸水し、撤去されて広い敷地だけが残っている。アパートや校舎の一階部分の窓は完全に破れている。路上に漁船や鉄道用コンテナが転がっている。電柱や信号機が傾いている・・・。壮絶な爪痕だ。

「ら・ら・ミュー」を出て、近くの塩屋崎灯台へ向かう。途中、映像で見た震災当時の道路両脇にあった瓦礫や小船などは撤去されていたが、住宅の基礎部分だけや壊れて傾いたままの住宅はまだ一部残っていた。

塩屋崎灯台は、美空ひばりの代表作のひとつ「みだれ髪」で知られた場所だ。白い灯台の麓では何もなかったかのように、穏やかな太平洋を背景にして、美空ひばりの写真とともに「みだれ髪」の曲が流れていた。塩屋崎灯台がある薄磯海岸は県内有数の海水浴場だそうだが、放射能を恐れてか海水浴客は激減した。そして、この海岸にも震災直後、県北部の海から津波被害による死体が連日流れ着いた。

■もとの住民とのあつれき

後日、毎日新聞に次のような記事が載った。『いわき市は1966年に14市町村が合併し発足。高度経済成長期まで本州最大規模の炭鉱「常磐炭田」の町としてにぎわった。閉山後は工業化を図り、2009年の製造品出荷額は東北地方1位。沿岸部では漁業も盛んだったが、東日本大震災では仙台市の約25万棟に次ぐ9万棟以上の建物が被害に遭い、死者数は441人。原発避難者が生活する「仮の町」は双葉郡と相馬郡の6町村が検討しており、このうち浪江、双葉、大熊、富岡4町はいわき市を候補地の一つとする。ただ、昨年(2012年)7月に閣議決定された福島復興再生基本方針では「仮の町」ではなく「町外コミュニティー」と表現された』。

東日本大震災の被災地でありながら、原発事故の多くの避難者を受け入れている福島県いわき市。もとの住民とのあつれきは震災から2年以上たった今も続く。

記事によれば、いわき市には大震災の後、原発事故に伴い双葉郡8町村を中心に約2万4000人が避難し、原発作業員らを含めると、人口約33万人の1割に当たる3万人前後が流入してきたとされる。

「いわき市民と避難者では賠償に大きな差があります。国や県は避難者の生活を優先し、原発避難自治体の住民には東電から一世帯月40万円くらいの補償費が出ています」。いわき市の被災事業所にも賠償金が出たが、避難者への補償はいつまで続くのか、とFは話していた。

避難者の人口増加で、量販店、スーパー、飲食店、パチンコ屋などは震災前に増して活況を呈する一方、ごみは1割増え、住宅の新築ラッシュで大型トラックが増え車の接触事故が相次ぐ、避難者は病院などのインフラを無償化で湯水のごとく使う(双葉郡からの避難住民は医療費が無料、いわき市は震災前から医師不足だったのに医療費は3割増で、仮設住宅近くの診療所の先生は疲れてやめたいという話もあるらしい)、住民税を払わず(住民票は被災元に残している)公共サービスにただ乗りしている、いわき市民は賠償も少額でみんな働いているのに避難者は働きもせず(仕事がないのか)補償金でパチンコして遊んでいる、など震災前から住んでいる市民の不満は多い。

不動産業界も景気がいい。震災後、宅地売買の申し込みが殺到し、賃貸住宅は約1万8000戸あった空き物件が瞬く間に埋まった。契約更新時に家賃を値上げする家主もおり、Fによれば「特に100坪以上の土地が高騰しています」。「避難元の町や村は原発事故でいまだ放射線量が高く、除染の見通しも立たない。帰りたくても帰れない」という理由で、土地や家屋を購入するのは帰郷が難しい避難住民らが多い。

地震と津波の自然災害に原発事故という人為的災害が加わった東日本大震災。復興が遅々として進まない中、放射能汚染に対する恐怖は、これからも続く。

■雄大な磐梯山と風格ある会津鶴ヶ城。喜多方ラーメンも美味かった

二日目。いわき市は海や小高い山に恵まれた静かな街だが、取り立てて観光すべき場所は余りないようだ。「会津に行きましょう!」とFが言った。

いわき市から磐越自動車道に乗り北西方向に1時間余り。国道49号線に降りると、左手に猪苗代湖が見えてきた。猪苗代湖は磐梯朝日国立公園に属し、日本で4番目に広い湖である。

さらに進むと、ドライブインなどが集まる前田地区に到着。昼食時だったので「河京ラーメン館」に入った。2階にある「ラーメン&ビュッフェ」は喜多方ラーメンなど6種類のラーメン(一杯は普通の量の半分)やサラダ、餃子、地元の漬物、デザートなど30種類以上のサイドメニューが食べ放題。ラーメンの麺はちじれ麺で、煮干しをベースにしたスープはあっさりして美味かった。店を出てすぐの所に、幼少時に左手に大やけどを負いながらも医学研究の分野で世界的な成果を上げた野口英世記念館があり、生家(古民家)と資料館には英世ゆかりの遺品等が多く展示されている。道路を渡り、さまざまなガラス製品の店や土産物屋をぐるっと見て、地ビールを飲む。建物の向こうには「会津富士」とも呼ばれる磐梯山が青空の下、悠然と座っている。標高約1800mで、日本百名山の一つだそうだ。

会津若松の鶴ヶ城(史跡若松城)へ。幕末の戊辰戦争などを描いたNHK大河ドラマ「八重の桜」は、この風格ある五層の城が舞台の一つで、歴代藩主(葦名家や蒲生家など8代)の遺品、城の変遷などが展示され、天守閣からは白虎隊が落ち延びた飯盛山が見える。過去、熊本城、姫路城、松江城、松本城、大阪城、松山城など多くの城を見たが、この鶴ヶ城も立派な城である。城内敷地の一角には、千利休の茶道を引き継ぐ茶室「麟閣」もあった。(会津藩の藩校・日新館は時間がなく、見学できなかった)

■「震災の悲惨さ」に胸を痛め、「観光」を楽しんだ二日間だった

  

わずか二日間の福島への旅だったが、天気にも恵まれ、「震災の悲惨さ」に胸を痛めながらも、「観光」を楽しんだ有意義な時間だった。旅はやはりプライベートがいい。限られた時間の中で、ツアーでは決して味わうことのできないポイントをついた案内と気遣いをしてくれた、そして散財させたFに感謝!!。

《Portfolio(写真)》

正面が小名浜港。港から500mほどの右手の看板あたりまで津波が押し寄せた

YOUTUBEに、このトンネルと思える映像があった。瓦礫や車はすでに撤去されている

小名浜港の観光物産館「ら・ら・ミュウ」

美空ひばりの「みだれ髪」で知られる塩屋崎灯台

1階部分は津波で浸かったのか

ホテルの部屋から見た、現在のいわき市街

猪苗代湖。遊覧船が見える

野口英世記念館内にある、本人を模したロボット。

食べ放題の喜多方ラーメン

「世界のガラス館」では、たくさんのガラス製品を販売している

標高1800mの会津磐梯山

会津地方の郷土玩具「赤べこ」

大河ドラマ「八重の桜」のポスター

会津鶴ヶ城の天守閣

天守閣から見下ろす。白虎隊が自刃した飯盛山は左手方向

戊辰戦争の時は、こんな姿だったのか

城内で見かけた木槿